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福島正則の簡単解説:web武将名鑑

ここでは、福島正則の人生について紹介しています。福島正則と聞くと、猛将と言うイメージが強いですが、足跡はどのようなものでしょうか。ここでは、福島正則の生涯を5つに分けて紹介しています。

福島正則の肖像画

豊臣秀吉の親戚

豊臣秀吉の家臣に

1561年:尾張海東郡で福島正信の長男として誕生

1578年:三木城攻めで初陣 200石 (17歳)

福島正則の家系図と出生地を示す図

福島正則尾張海東郡(愛知県)で、福島正信長男として誕生しました。母親が豊臣秀吉の母、大政所(なか)と姉妹であったと言われています。つまり、正則は豊臣秀吉の親戚です。そのためか、正則は幼少の頃から豊臣秀吉に小姓として仕えました。

正則の初陣は、播磨三木城攻め(兵庫県)でした。三木城攻めは、豊臣秀吉織田信長に命じられて行った城攻めです。三木城攻めでの功績により、200石を与えられました。

各地を転戦し大名へ

武功を挙げて一廉の武将に

1582年:山崎の戦い 500石 (21歳)

1583年:賤ヶ岳の戦い 5000石 (22歳)

1587年:九州征伐

               伊予今治11万3000石 (26歳)

1582年、織田信長本能寺の変で、明智光秀に裏切られ死去しました。そして、豊臣秀吉は弔い合戦を仕掛け、山崎の戦い明智光秀に勝利し、明智光秀は逃げる途中で命を落としました。正則は、勝竜寺城を攻撃した際などの功により、500石の所領を与えられました。

山崎の戦い明智光秀を滅ぼした豊臣秀吉は、主家の織田家をも凌駕する権勢を手中に手に入れました。すると、織田家重臣である柴田勝家が、豊臣秀吉に手向かいます。これにより、豊臣秀吉柴田勝家の間で、賤ヶ岳の戦いが起きました。正則はこの戦いで、戦功を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」に選ばれますが、これは豊臣秀吉が自身の子飼いの武将の手柄を喧伝するために言い出したと言われています。この戦いにより、正則は5000石を与えられました。ちなみに、七本槍の中で、正則が最も多くの所領を与えられました。

国府城の位置を示す地図

この後も、四国征伐根来寺、小牧長久手の戦い等にも参戦し、九州征伐の後に、伊予今治(愛媛県)、11万3000石が与えられ、国府城を居城としました。正則が領内で始めに行ったのは、検地、刀狩だと言われています。また、能島水軍の残党の海賊狩りも行いました。

終わらない戦い

豊臣家に欠かせない武将へ

1590年:小田原征伐 (29歳)

1592年:文禄の役 (31歳)

1595年:尾張清州24万石 (34歳)

さらに、豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして、小田原征伐を行いました。小田原征伐で、正則は織田信雄に従って、韮山城攻めの一翼を担いました。しかし、韮山城は4ヶ月以上も籠城戦に耐え、最終的に徳川家康の仲介によって開城しました。

豊臣秀吉は天下統一後、朝鮮出兵を行いました。正則は、文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、五番隊の主将として、朝鮮半島に渡り、忠清道の平定を主に担当します。兵站を担うなど、実際の戦闘以外でもその能力を発揮しました。

清州城の位置を示す地図

文禄の役の後、1595年に豊臣秀次切腹させられる事件が起きました。豊臣秀次の所領だった尾張清州城は正則に与えられ、所領も24万石に加増されました。

東軍として戦った関ヶ原

大大名に

1599年:石田三成襲撃事件

1600年:関ヶ原の戦いに東軍として参戦 (39歳)

1601年:芸備 49万8000石 (40歳)

1598年に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康が接近してきます。翌年、徳川家康は、正則の養子、福島正之に、自身の養女、満天姫(まてひめ)を嫁がせます。この婚姻は豊臣秀吉が、禁じた私的縁組に反する行為でした。

また同年、正則ら七将が大阪城石田三成の屋敷を襲撃しました。この襲撃事件を起こした動機は、朝鮮出兵での七将と石田三成の対立や、徳川家康がけしかけたなどの説があり、詳しくはわかっていません。

その後、徳川家康会津征伐に従い出兵し、そのまま東軍として関ヶ原の戦いに参戦します。関ヶ原の戦いの前の岐阜城攻めでは、池田輝政と競って城を落としました。そして、関ヶ原の戦いでは先陣を任され、宇喜多秀家の軍と戦います。しかし、宇喜多軍の前線の将の采配により苦戦を強いられました。

広島城の位置を示す地図

関ヶ原の戦いの後に、徳川家康に功績が認められ、安芸(広島県)・備後(広島県岡山県の一部)を与えられました。正則は、居城を広島城に定めました。徳川家康に与えられた時の所領は、49万8000石でしたが、検地や新田開発を行い、51万5000石まで増加させることに成功しました。戦いだけでなく、行政手腕にも長けた武将だったことがわかります。

豊臣家への奉仕と晩年

憐れな晩年

1611年:二条城の会見 (51歳)

1619年:信濃高井郡、越後魚沼郡4万5000石に減転封(58歳)

1624年:死去 (63歳)

関ヶ原の戦い後も、豊臣家の忠誠は忘れず、1611年には、加藤清正とともに奔走して、徳川家康豊臣秀頼の二条城での会見に漕ぎ着けました。しかし、大阪の陣では豊臣方に加わることはなく、徳川家康江戸城留守居役を言いつけられました。

正則は晩年は憐れなものでした。1619年に幕府に無断で広島城を改修したとして、信濃田野井郡、越後魚沼郡に転封のうえ4万5000石に減封されます。そして、その5年後に正則は死去しました。