小早川秀秋の簡単解説:web武将名鑑
小早川秀秋は、関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったというイメージが強いです。ここでは、小早川秀秋の人生を6つのターニングポイントに分けて紹介します。
豊臣秀吉の養子に
小早川秀秋は、豊臣秀吉の妻おねの兄、木下家定の五男として、長浜(滋賀県)で生まれました。豊臣秀吉は、義理の叔父にあたります。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田信長により、近江(滋賀県)長浜城を与えられたため、父親の木下家定はその家来となり長浜にいました。そのため、秀秋の誕生地は長浜です。
秀秋は、幼くして子どものいなかった羽柴秀吉の養子となり、おねの下で育てらました。
豊臣秀吉の後継者No.2
話は前後しますが、秀秋の誕生した年に織田信長が亡くなりました。織田信長の死後、中央で権力を握った豊臣秀吉によって、丹波の亀山城(京都府)10万石が、秀秋に与えられました。さらに、豊臣の姓を下賜され、豊臣秀次に次ぐ、豊臣秀吉の後継者No.2になります。
ここまで、豊臣秀吉の親族(血は繋がっていない)というだけで、順調に出世してきました。
追い出され小早川家の養子へ
天下統一後に、豊臣秀吉に待望の実子が産れます。後の、豊臣秀頼です。こうなると、豊臣秀吉は実の子に後を継がせたくなります。すると、秀秋らの養子が邪魔になります。
豊臣秀吉は、秀秋を中国の大大名で、子供のいなかった毛利輝元に養子にするよう打診します。これを聞いた、毛利家の家臣小早川隆景は、主家である毛利家を守るために、自分の養子に迎えたいと豊臣秀吉に伝え認められました。1594年には正式に、秀秋は小早川隆景の養子となりました。
一方で、もう一人の後継者No.1だった養子の豊臣秀次は謀反の疑いがあるとして、切腹させられました。秀秋は秀次事件に連座して、所領の亀山城を没収されます。しかし、小早川隆景が隠居したことから、その所領を受け継ぎ、筑前名島城(福岡県)30万7000石の領主となりました。
10万石から、30万7000石に所領が増えて良かったように見えますが、京都の都近くから遠く離れた福岡に飛ばされたと考えると、どうなのでしょうか。
転封と復帰
第二次朝鮮出兵で、秀秋は総大将として軍を率いて朝鮮半島に渡り釜山に在状しました。しかし、渡航したその年の内に、豊臣秀吉から帰国命令が下り、翌年の1月には帰国しました。
帰国直後、秀秋には越前北ノ庄15万石への転封を命じられました。しかし、豊臣秀吉が死去すると、その遺命により五大老の連署の下、筑前・筑後59万石が与えられました。
関ヶ原の戦い
1600年、内府のちかひの条々を出し、西軍が徳川家康を討つために挙兵しました。挙兵した西軍は、徳川家康が畿内で拠点に使っていた伏見城を攻撃します。伏見城には留守居役として、鳥居元忠が籠り激しく抵抗しますが、西軍が伏見城を落としました。秀秋は、伏見城の攻防戦に西軍として参加しました。
しかし、関ヶ原の戦いの前までには、東軍の将である黒田長政の調略により、西軍を裏切り東軍につくことを決めていたようです。(本心はわかりません。迷っていたのかもしれません。) いずれにせよ、関ヶ原の戦いでは、西軍を裏切って、松尾山を下り、激戦を繰り広げている西軍の横腹を突く形で西軍に攻めかかりました。
一方で、西軍は秀秋の裏切切りに気づいていたようです。実際に、西軍の大谷吉継らは、松尾山下ったところで、秀秋の裏切りにも対応できる陣の張り方をしていました。しかし、実際の戦いでは、秀秋軍の攻撃を防げず、大谷吉継の軍は総崩れし、隣の宇喜多秀家や小西行長の軍も、小早川秀秋の攻撃で崩れ西軍は敗北しました。
その後
酒に溺れた乱れ早死に
1600年:岡山55万石に移封(18歳)
1602年:急死、小早川家断絶
秀秋は関ヶ原の戦い後の、論功賞で宇喜多秀家の旧領、岡山55万石が与えられました。そして、家臣団の整備等を行っていましたが、2年後に急死します。酒に溺れた結果による内臓の病気だったそうです。
また、秀秋には後継ぎがいなかったため、小早川家はお家断絶となりました。