細川忠興の簡単解説:web武将名鑑
細川忠興は、豊前小倉藩(福岡県)の初代藩主にして、肥後熊本初代藩主の父親です。ここでは、細川忠興の人生を6つに分けて紹介しています。
足利家家臣出身
1563年細川藤孝の長男として、京都で誕生しました。父藤孝は、13代将軍、足利義輝の家臣でした。しかし、1565年に足利義輝が殺されてしまいます。そこで、細川藤孝らは、足利義輝の弟義昭を将軍職に就けるため、織田信長を頼ることにしました。その後、足利義昭は織田信長の助けのもと上洛し、無事征夷大将軍に任命されました。
織田家家臣時代
槍働きで活躍
1573年:足利義昭と織田信長の対立により信長に恭順 (10歳)
1577年:紀州征伐で初陣
信貴山城の戦い(14歳)
1578年:元服、玉と結婚 (15歳)
1579年:丹後守護一色義道を滅ぼした (16歳)
しかし、暫くすると将軍職に就いた足利義昭と、織田信長の仲が険悪になります。忠興は父藤孝と共に、足利義昭を離れ織田信長に恭順し家臣となりました。その後、織田信忠が指揮した紀州征伐で初陣を果たします。初陣ながら、一番槍の功を挙げたと言われています。
また、同年の信貴山城の戦いにも従軍します。忠興は、明智光秀、父藤孝とともに河内片山城を攻めました。味方の陣が崩れそうになるなか、敵陣を突破し何人も敵を槍で討ち取りました。この功績が称えられ、後日織田信長から感状が与えられました。
そして他忠興は初陣の翌年に、元服し織田信忠から「忠」の字が与えられ、ここから「細川忠興」と名乗ります。そして、織田信長の命の下、明智光秀の三女、玉と結婚しました。
翌年、丹後平定のために、明智光秀、父藤孝とともに丹後守護の一色義道を滅ぼしました。この功績により、細川藤孝に織田信長から丹後南半国の支配権が与えられました。
本能寺の変では不動
順調に各地を平定していた織田信長ですが、1582年に本能寺の変で明智光秀に攻められ自刃しました。明智光秀は本能寺の変後、細川父子に味方になるように、説得しますがこれを拒否し、父子は剃髪し居城に引きこもりました。さらに、忠興は明智光秀の娘である、妻の玉を味士野に幽閉しました。婿にあたる細川忠興が味方にならなかったことは、明智光秀にとって大きな痛手だったと言われています。
その後、明智光秀は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に山崎の戦いで敗北し、逃走途中に殺されました。また、父藤孝がこれを機に隠居したため、忠興は丹後南半国の領主となり、宮津城を居城としました。
豊臣家に仕えて
山崎の戦いの後、豊臣秀吉の権勢が増していきます。忠興も他の多くの武将と同様に、豊臣秀吉の家臣となりました。そして、小牧長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐に従軍し戦功を挙げます。
小田原征伐により天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、朝鮮出兵を行いました。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、忠興も九番隊に属して、朝鮮に渡ります。第一次晋州城攻防戦では、晋州城を落とすことができませんでした。しかし、第二次晋州城攻防戦に参戦し晋州城を陥落させることに貢献しました。
国内での動向に目を向けると、豊臣秀吉に待望の実子が誕生しました。その結果、実子が誕生するまで、後継者と目されていた豊臣秀次が邪魔になります。最終的に、豊臣秀次は切腹させられ、関係者も処罰されました。忠興も豊臣秀次に、借金をしていたため、罰せられそうになります。この時、家臣の松井康之が奔走し、徳川家康の取り成しもあったため事なきを得ます。
豊臣秀吉の死後は徳川家康に接近
豊臣秀吉が死去すると、忠興は専横を始めた徳川家康に接近します。そして、豊臣秀吉が亡くなった翌年、石田三成襲撃事件が起きました。忠興ら七人将が、大阪城下の石田三成の屋敷を襲撃したのです。そして、この事件の責任を取る形で、石田三成は謹慎させられます。
この後、襲撃事件を起こしたことに対する恩賞かどうかはわかりませんが、忠興は徳川家康の推薦により、豊後杵築(大分県)6万石が加増されます。その結果、忠興は丹後と合わせて、18万石を領有する大名となりました。
関ヶ原の戦いでは、人質として妻、玉を大阪に取られていましたが、徳川家康が率いる東軍に属します。その結果、大阪城下の細川屋敷は西軍に襲撃され、玉は自害しました。関ヶ原の戦いで、忠興率いる軍勢は、黒田長政らとともに石田三成率いる軍勢と戦いました。また、忠興は東軍に属することを早くに宣言したため、他の大名が東軍になびくのに貢献したそうです。
九州の大大名
関ヶ原の戦いの戦功により、豊前中津(大分県)33万9000石に加増転封されました。ただし、杵築6万石はそのまま領有が認められたので、これらを合わせて石高は39万9000石でした。また、領国支配のための居城を中津城から、改修を加え小倉城(福岡県)に移しました。その後、大阪の陣にも参加し、病気を理由に1620年、細川忠利に家督を譲りました。
細川忠利が、肥後熊本54万石に加増転封されると、忠興は八代城(熊本県)に入りました。そして、1645年に82歳で死去しました。