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なぜ関ヶ原の地で東軍と西軍が激突した?

豊臣秀吉の死後、関ヶ原で東軍と西軍が激突しました。結果として徳川家康が率いる東軍が勝つのですが、なぜ東軍と西軍が戦った場所が関ヶ原なのでしょうか。

東軍と西軍がお互いに示し合わせて、「関ヶ原で白黒つけましょう。」と言って戦ったわけでは、ありません。成り行き上、関ヶ原で戦うことになったのです。

西軍は尾張三河で東軍を迎え撃つ作戦

西軍が愛知県で東軍を迎え撃つイラスト

西軍は、東軍を尾張から三河のどこか(愛知県のどこか)で迎え撃つ作戦を立てました。西軍は東軍が西上してきた場合、大阪から毛利輝元出陣し、尾張もしくは三河で決戦を行う予定でした。

西軍が清州城を攻撃するイラスト

また、清州城(愛知県)の福島正則の説得を試みて、西軍に寝返らなければ、美濃方面に進行した軍と、伊勢方面に進行した軍で清州城を攻撃し、尾張を平定する予定だったようです。美濃方面を担った軍の中心が石田三成でした。

西軍に誤算

美濃方面を進んだ石田三成を中心とする西軍は、8月には美濃の大垣城(岐阜県)に到着しました。しかし、大きな誤算もありました。

  • 東軍の西上が想定より早かった
  • 毛利輝元が出陣しなかった
  • 岐阜城が東軍に落とされた

東軍の西上が早かったこと、毛利輝元が大阪から出陣してこなかったことで、尾張三河で、東軍に決戦を挑むことができませんでした。さらに、岐阜城を東軍に奪われたことで、尾張方面に進出するための、重要な軍事拠点を失いました。

美濃での対峙

西軍は伊勢(三重県)方面に進出していた軍や、北陸方面に進出していた軍の一部が、美濃方面軍に合流し、徳川家康も美濃に到着しました。

結果として、9月12日時点(関ヶ原の3日前)には、以下のように美濃で両軍が対峙します。

岐阜県で西軍と東軍が対峙するイラスト

西軍が大垣城退去

石田三成らは、9月14日(関ヶ原の戦いの前日)の夜に大垣城を退去します。そして、決戦の地、関ヶ原へと向かいます。大垣城に退去した理由はいくつか考えられます。

石田三成が大垣城を退去するイラスト

石田三成大垣城を退去した理由は、大軍が籠るには小さ過ぎたからです。大垣城に籠ったのは、石田三成宇喜多秀家小西行長らで、西軍の主力の大部分です。さらに、補給面の問題もあったはずです。籠城し敵に包囲されると、食糧や矢玉を城外から搬入することはできません。特に小城に大軍が籠ると、食糧は瞬く間に尽きてしまいます。

また、赤坂に東軍が集結しているため、大垣城に籠っていては関ヶ原に布陣している大谷吉継や、中国・四国軍と分断出された形になってしまいます。そのため、合流した方が有利だと考えたのでしょう。

そして、石田三成らも野戦に勝機を見出していたのでしょう。関ヶ原で東軍を迎え撃っている隙に、南宮山から中国・四国軍が背後から東軍を攻撃することで、東軍を前後から挟み撃ちできます。

東軍も関ヶ原に移動

東軍が関ヶ原へ移動するイラスト

西軍が大垣城を退去して、関ヶ原に向かったという情報は、東軍にも届きました。黒田長政から、松尾山に陣取った小早川秀秋の裏切りの旨を聞いた徳川家康は、これを喜び関ヶ原に移動することを決めました。東軍は9月15日早朝には、関ヶ原に到着し布陣しました。

その後、東西両陣営が激戦を繰り広げる関ヶ原の戦いが始まります。松尾山の小早川秀秋は、黒田長政に伝えたように、西軍を裏切りこれが決定打となって東軍が勝利しました。