浅野幸長の簡単解説:web武将名鑑
浅野幸長の生涯を、時系列に沿って3つの区切りに分けて紹介しています。浅野幸長は、奉行を務めた父の浅野長政とは異なり、軍事面で力を発揮した勇将でした。また、豊臣家に対する忠誠心も人一倍強かったようです。
天下統一戦が初陣
浅野幸長は、1576年浅野長政の長男として、近江坂本(滋賀県)で誕生しました。父長政は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の妻おねの義兄弟であるとともに、重臣とし仕えていました。
幸長の母のややと、豊臣秀吉の妻おねは、(義)姉妹でした。ややとおねは、本当の姉妹だったか、定かではありませんが、浅野長政の叔父の養女であったため、少なくとも義姉妹ではありました。そのため、豊臣秀吉にとって、幸長は義理の甥にあたります。
幸長の初陣は、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げるための最後の戦い、小田原征伐でした。幸長は、父の長政にとともに岩槻城の攻略を担当しました。本多忠政とともに、大手口を破る功績を立てて、豊臣秀吉に賞賛され、刀と脇差を送られます。
朝鮮出兵
文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、渡航前に肥後葦北郡(熊本県)で梅北一揆が起きました。幸長は鎮圧部隊の総指揮官として、現地に向かいますが到着前に鎮圧されていました。
一揆鎮圧後、幸長は朝鮮半島に3000の兵を率いて渡海し、日本側が築城した西生浦倭城に在番しました。伊達政宗も幸長の後見人として、自ら豊臣秀吉に渡海を申し出許可されます。その後、幸長は加藤清正とともに、各地の平定を試みました。
幸長が朝鮮半島に在陣している間に、豊臣秀吉から、長政・幸長親子に甲斐府中(山梨県)が与えられました。(浅野長政にとっては、若狭小浜(福井県)からの移封)石高は、幸長が16万石、父長政が5万5000石、豊臣家直轄地が1万石の22万5000石でした。これにより、幸長は府中城の城主となります。
一方で、朝鮮半島に渡った幸長は、日本と明の和議成立により帰国しました。しかし、同年に豊臣秀次切腹事件が起きます。これは、豊臣秀吉に実子が誕生したことで、豊臣秀吉と豊臣秀次の仲が悪くなった結果生じた事件です。この事件で幸長は、相婿(妻が姉妹同士)であった豊臣秀次を弁護します。そのため、豊臣秀吉の怒りを買い、能登津向(石川県)に配流されました。しかし、前田利家と徳川家康の取り成しにより、すぐに許されました。
その後に起きた、慶長の役(第二次朝鮮出兵)でも、幸長は朝鮮半島に渡ります。日本側は朝鮮半島内陸部まで一度進撃し、その後南部に戻って守備を固めました。
幸長は南部の守備のため、築城途中であった蔚山城の城外で野営をしていたところ、突然明軍に襲撃され戦闘になります。明軍の方が数が多く、幸長自身も負傷し馬印が奪われるほど苦戦しますが、家臣の亀田高綱が敵将を討ち取ったことで、隙をついて蔚山城に撤退することに成功しました。
蔚山城襲撃の知らせを聞いた、加藤清正は直ちに蔚山城に戻り籠城して戦いの指揮をとりました。朝鮮出兵で有名な激戦の一つ蔚山城の攻防戦です。幸長は蔚山城の本丸の南側の守備を担当し、自ら鉄砲を撃ちこの激戦を切り抜けたと言われています。
関ヶ原は東軍方
幸長は1598年に日本に帰国しますが、帰国前に豊臣秀吉が病気で亡くなりました。すると、徳川家康が、豊臣秀吉が定めた取り決めを次々と破り、さらにそれに抗議するものも現れます。こうした状況下で、七将が大阪城下の石田三成の屋敷を襲撃しました。幸長もこの襲撃を企てた七将の一人です。襲撃事件が起きた理由は明らかになっていません。七将と石田三成が朝鮮出兵の際に揉めたことが原因とも、徳川家康がけしかけたとも言われています。
その後起きた関ヶ原の戦いで、幸長は東軍として参戦しました。前哨戦とも言われる岐阜城攻めで、は砦への攻撃を担当しました。また、関ヶ原の戦いの本戦では、池田輝政らとともに南宮山の西軍らに対する押さえを任されます。戦後は、京都の警備、毛利輝元の大阪城からの撤収と、徳川家康の入城の手続などを行いました。これらの、功績により、紀伊和歌山城主として37万6560石が幸長に与えられました。
幸長は、関ヶ原の戦い後も、豊臣家に対する忠誠心は持ち続け、二条城の会見で警備を担当し、豊臣秀頼と徳川家康の対面を実現させました。しかし、その2年後、幸長は和歌城にて病死しました。豊臣家への忠誠を失わず、若くして亡くなったため、徳川家によって毒殺されたという説もありますが、証拠はありません。