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石田三成の簡単解説:web武将名鑑

石田三成は、関ヶ原の戦い徳川家康に負けた人として、記憶されている方が多いと思います。ここでは、石田三成について詳しく解説しています。できるだけ図を多く用いるようにはしていますが、長いので興味ある部分だけ読んでいただいても構いません。

石田三成の肖像画

~基本情報~

  • 生存年:1560年~1600年 (41歳)
  • 最高官位従五位下 治部少輔
  • :石田氏

< 総括 >

関ヶ原の戦いで負けてしまったことで評価が著しく低くなっている武将。頭脳明晰で政務に長けていたイメージにほぼ誤りはなく豊臣政権で要職をいくつも務めたが、悪人というイメージは間違い。

石田三成の誕生

石田村の場所湯を示す地図

石田三成は、近江(滋賀県)坂田郡の石田村で誕生したと言われています。父は石田正継で、兄に石田正澄がいました。幼名もしくは若い頃の名として佐吉が用いられています。

織田信長は、北近江の浅井長政に対抗するために豊臣秀吉(この時点では、木下藤吉郎)を派遣。そして、浅井長政を滅ぼした後には、旧浅井領の支配を豊臣秀吉に一任。石田正継は、上記のどこかの時点で、豊臣秀吉に臣従したと考えられます。

政務担当者として登場

石田三成が当時の史料に初めて登場するのは1583年、本能寺の変の翌年です。豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の家臣で、政務担当者としてその名が記載されています。ちなみに、この頃「三成」でなく、「三也」と名乗っていました。

豊臣秀吉山崎の戦い明智光秀に勝利し、織田家中で、大きな発言権を持っていました。しかし、あくまで当時の主君は織田氏です。

上杉家との外交担当者

豊臣家と上杉家のやり取りを示す図

山崎戦いの後、豊臣秀吉は美濃(岐阜県南部)の岐阜城主、織田信孝(織田信長の三男)、織田家家臣の柴田勝家と徐々に対立。柴田勝家は越前(福井県)の北ノ庄城を本拠地としていました。

柴田勝家との対立を優位に進めるために、豊臣秀吉は越後(新潟県)の春日山城主、上杉景勝と手を結びます。実際の交渉を任されたのが、石田三成増田長盛、木村吉清の三人。この三人は今後も上杉氏との外交における実務を担当しました。

柴田勝家との争い

賤ヶ岳の戦いが起きた場所を示す図

結局、豊臣秀吉柴田勝家争うことになります。賤ヶ岳の戦いです。この争いでの石田三成の活躍は諜報活動でした。

越前の柴田勝家は雪のために、冬に軍を動かせません。豊臣秀吉はこの隙を突いて、柴田方に付いた、滝川一益が領した伊勢(三重県の一部)に侵攻。滝川一益は降伏したのです。

その後、柴田勝家の南下の知らせを受け、豊臣秀吉は近江に戻ります。柴田勝家の動向を、石田三成に探らせていたのです。その後、賤ヶ岳の戦いで、豊臣秀吉は勝利。

治部少輔への任官

賤ヶ岳の戦い以後も、三成は増田長盛、木村吉清とともに上杉家との外交を担当。一方で、小牧長久手の戦い、続く紀州攻めに従軍するも、三成は豊臣秀吉の、本陣にいました。政務や庶務に当たったと思われます。

小牧長久手の戦いの折には、近江(滋賀県)に行き検地(田畑の面積・収穫量調査)を実施。この時期は、戦地から離れていたようです。四国攻め、越中(富山県)の佐々成政攻めでは、豊臣秀吉が自ら出陣しなかったため、三成も従軍していないと考えられます。

その後、豊臣秀吉が朝廷から従一位、関白に任じられた際に、三成も従五位下、治部少輔に任官された模様。

東国諸将との外交担当

上杉景勝の上洛ルートを示す図

畿内・四国を平定した豊臣秀吉は、東国の平定に移ります。三成は新たに、真田昌幸との外交交渉を担当。

さらに、小牧長久手の戦い以後、敵対関係にあった徳川家康豊臣秀吉の和睦が成立しました。これを機に、三成は増田長盛、木村吉清らとともに上杉氏・北関東の諸将に上洛(京に行くこと)を促します。東国諸将に豊臣秀吉への、臣従を催促したのです。

上杉景勝の上洛が決まると、三成は饗応を命じられます。加賀(石川県の一部)森本で上杉景勝を出迎えました。一向は金沢城前田利家の歓待を受け上洛した後、大阪城豊臣秀吉に拝謁。上杉景勝一向は大阪の三成の屋敷でもてなされ、居城の春日山城へ戻ります。三成は越後の雄、上杉氏の饗応という大役を滞りなく務めたのです。

堺奉行に就任

堺奉行の構成員と役割を地図に示した図

1586年、本能寺の変から4年後、織田信長の時代から堺政所を務め、堺の代官を務めていた松井友閑が突如として豊臣秀吉に罷免されます。

新たに堺奉行に就任したのが、小西立佐と三成。小西立佐は、堺の有力な商人と婚姻関係にあり、キリスト教会のイエズス会とも親交が深い人物でした。自身もキリシタンであり、商人だったと言われています。さらに、次男の小西行長は瀬戸内海の海運にも明るかったのです。

当時の豊臣政権の状況に目を向けると、九州では薩摩(鹿児島県の一部)の島津氏が拡大政策を推し進め反抗。一方で、徳川家康とは和睦するも、臣従させられていませんでした。そのため、豊臣秀吉は西日本の対応に手が回りません。島津氏の対応は他に任せることとなります。

対島津の兵站を担ったのが堺でした。当時、堺は最大の貿易港。堺の商人が使用する海上交易ルートを、兵糧等の輸送経絡として活用したのです。

堺は一時期、豪商達が自治を行なっていた街でもあり、独立色の強い地域でした。そのため、豊臣秀吉は堺の商人やイエズス会に顔の利く小西立佐と、実務能力に優れ信頼のおける部下、三成を堺奉行に抜擢したと考えられています。

九州平定の戦後処理

九州平定の結果と島津氏の居城を示した図

徳川家康を屈服させた豊臣秀吉は翌年、九州平定を目的に出陣。三成も従軍しました。島津氏が降伏するまでの三成の役割は、動員された諸将と豊臣秀吉との間の取次ぎ。諸将への軍令の伝達、諸将の戦況をまとめ報告することを担ったのです。

三成が活躍したのは、九州平定よりもその後の戦後処理。三成は細川幽斎とともに、降伏した島津氏との外交担当を任されます。

忙しくなる東国対応

東国で争いが起きた場所を示す図

九州平定後、東国各地で争いが起きます。出羽(秋田県山形県)の庄内を巡って、上杉氏と最上氏が対立。上杉氏との外交を担当していた三成と増田長盛豊臣秀吉への上杉氏の取次を行いました。結果は上杉氏方に有力な判決となりました。

また、蘆名氏が領有する会津を巡って、伊達氏と蘆名氏の間で争いが勃発。蘆名氏の当主は、常陸佐竹義重の次男の義広が継いでいました。この関係から蘆名氏と豊臣政権との取次は三成が担当。蘆名氏家臣、金上盛備、盛実父子と三成はやり取りします。

また、小田原の北条氏氏討伐が内定すると、真田昌幸に詳細を知らせる書状送付。相馬氏には小田原攻めに参陣を要請。このように、九州平定後の三成は、東国対応に追われました。また大谷吉継とともに、美濃での検地も実行しています。

小田原征伐

石田三成の小田原征伐における活躍を示す図

豊臣秀吉小田原征伐に乗り出すと、三成もこれに従軍。三成は1500の軍勢を率いていたことから、この頃までにある程度の領地を有していたと思われます。しかし、その場所などは未だにわかっていません。

三成は九州平定の時と同様、豊臣秀吉の本陣で味方の諸将に他所の戦況報告、指示をしつつ、関東諸将へ参陣を要請。また、佐竹家当主の佐竹義宣豊臣秀吉に拝謁するための指示も行なっています。

九州平定と異なるのは、三成が一軍の指揮官となって城攻めを命じられたことです。三成は2万3000の軍勢を指揮下に置き、館林城忍城の攻略を担当。館林城は三成らが到着すると降伏勧告に応じ開城。

一方、忍城豊臣秀吉に水攻めにすることを命じられていたためその指示に従いました。詳しい経緯に関しては未だに解明されていないものの水攻めは失敗に終わります。そして、小田原城が開城した後にようやく、忍城は開城しました。

忍城攻め:戦いで読み解く戦国史

奥羽仕置の実務

石田三成が関与した奥州の戦国大名とその居城を示す図

小田原城を降し、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は宇都宮にしばらく滞在し、会津まで進出。この間に、奥州と北関東の諸将の領地配分、取り潰す大名を発表しました。その後、豊臣秀吉は諸将に実務を任せ帰還。三成も奥州で実務に携わります。

三成が関わった奥州の諸将の配置については以下です。

  • 石川昭光の所領没収
  • 大崎義隆の所領没収
  • 葛西晴信の所領没収
  • 相馬余義胤の所領安堵
  • 岩城氏への介入

三成は小田原征伐に参陣しなかった石川昭光、大崎義隆、葛西晴信の所領没収の手続き等を諸将と協力して遂行。大崎氏・葛西氏の旧家臣は、後に一揆を起こします。三成はこの一揆平定のために何度か奥州に派遣されています。

さらに、三成は岩城氏の家中にも介入。小田原征伐直後に、当主の岩城常隆が亡くなり実子の政隆は生まれたばかりであったため、豊臣秀吉の命により佐竹義重の三男で養子の貞隆が跡を継いでいました。三成は佐竹氏と豊臣政権との取次ぎを任されていたことから、岩城氏との取次ぎも任されることになったのです。

岩城貞隆は佐竹家からの養子であったため、家中で孤立したり、佐竹家から貞隆に附けられた家臣と岩城家の家臣の間で対立したりする危惧がありました。三成は岩城家中のこのような危険を取り除くために、岩城家中に入ってきた佐竹家を優遇する方針を指示。岩城氏の領内で検地を行い、岩城貞隆や佐竹家からやってきた家臣に多くの収入が入るよう取り図いました。

一方都では、千利休豊臣秀吉切腹を命じらます。三成が政敵の千利休を追い落とした結果などと言われ事もありますが、真相はわかっていません。

土地管理でも活躍

豊臣秀吉が行った全国の検地と地図作成の流れを示す図

豊臣秀吉は全国統一を成し遂げたことで、全国の諸大名に地図と検地(田畑の面積・収穫量調査委)実施により、自領の石高(米の収穫量)を割り出させ書面にまとめ提出させます。天皇に献上することが目的でした。この実務を担ったのが三成ら。検地の方法などを取り決め、諸将に伝え、地図と石高を提出させました。実際の検地は領主主導で行われため、甘めの査定結果だったと考えられます。

さらに、三成は豊臣家の直轄地の管理も任されました。近江(滋賀県)佐和山城を拠点に、一円の直轄地の管理を担ったのです。(この時点で佐和山城は三成の居城ではなく、直轄地支配のために利用した城)小田原征伐、奥州仕置後、三成は領地を美濃(岐阜県南部)に与えられたと考えられていますが、場所と領地はわかっていません。

第一次朝鮮出兵

第一次朝鮮出兵で指揮権を任された武将とその進撃ルートを示す図

日本を統一し関白を辞して太閤となった豊臣秀吉は、明(中国)を征服するために、朝鮮半島に軍勢を派遣。豊臣秀吉自ら朝鮮に渡ると言い出しますが、この案は取りやめとなりました。代わりに、朝鮮での指揮権を委ねられた以下の武将が派遣されたのです。

指揮権を委ねられたとは言いつつも、朝鮮出兵全体の戦略は豊臣秀吉の意向が大きく反映されることになります。

漢城在陣

漢城滞在時に石田三成が出した指令をまとめた図

日本軍の指揮権を託された7人は、朝鮮王国の都、漢城に入城。約1カ月前から漢城は日本軍の掌中にあったのです。

漢城に到着して直ぐ、長谷川秀一と木村重玆は地方平定のために移動。また、前野長泰、加藤光泰は監察の立場に近いものだったため、実際に指揮を執ったのは、石田三成増田長盛大谷吉継の三人。

実際に朝鮮にやってきた三成らは、日本で聞かされていた情勢と実情に誤差があることを認識。食料と兵員の不足に直面していたのです。これらの問題があったため、朝鮮に派遣された諸将は、朝鮮半島の制圧を主張。一方で、日本にいる豊臣秀吉からは、更なる侵攻を求められます。

三成ら指揮権を委ねられたと3人は、豊臣秀吉に従いつつも、諸将の窮状を打破するたための指示を出します。小早川隆景には京畿道への転戦を命じる一方で、食料を確保するために、朝鮮半島各地の攻略と支配を指示したのです。

朝鮮制圧の頓挫

朝鮮出兵の休戦までの流れを示す図

三成らの指示により、朝鮮半島の支配を進めるも中々事態は好転しません。むしろ、平壌を守っていた小西行長が、朝鮮・明連合軍の攻撃に耐えられなくなり敗走。開城にて諸将と合流するも漢城まで戦略的撤退。漢城が最前線となります。

朝鮮半島の北部にいた軍勢も、漢城に籠もったため食料事情が悪化。さらに、病気も蔓延。漢城は一気に窮地に陥るのです。

ここにきて、明が和議を提案。困窮していた日本側も提案を受け入れました。日本軍は朝鮮半島南岸まで撤退。一方、明側は日本に使節を派遣。豊臣秀吉には明が謝罪のために送った使節と伝えられましたが、この使節は明の正式な使節ではなかったのです。

三成は増田長盛大谷吉継小西行長らと明の使節を伴って日本に帰還。しかし、三成、大谷吉継増田長盛の三人はすぐに、朝鮮半島にとんぼ返り。漢城からの撤退に伴ともなう、朝鮮半島南岸の拠点確保と構築を済ませる必要があったからです。拠点構築、和議がまとまるまで朝鮮に留まる諸将の配置が決まると、三成は帰国しました。

島津家の後継者争いと伏見城修理

島津氏の後継者争いをまとめた図

三成は日本に帰国しても休むことはできません。島津家の後継者問題が起きていたのです。

九州平定で降伏後も、島津家中は豊臣政権に協力派と非協力派に分かれていました。協力派の筆頭が島津家当主の島津義久、協力派の筆頭が島津義久の弟義弘。この派閥争いが、後継者問題を介して表面化。三成は豊臣政権下と島津家の取次を任されていたので、この問題に積極的に介入します。

島津家当主、島津義久には男子がいませんでした。そのため、次期当主とされていたのは島津義弘の次男久保。しかし、島津久保は三成が朝鮮から帰国する前に、陣中で没してしまいます。

島津家の当主、島津義久は次期当主に島津彰久を推します。これを容認すると、豊臣政権協力派の勢いが強くなります。これを危惧した三成と島津義弘は、義弘の三男忠恒を次期当主に推認。結果いち早く豊臣秀吉に拝謁した島津忠恒が次期当主として認められました。

島津氏の後継争いと平行して、三成は豊臣政権の政務もありました。関白の位を退いていた豊臣秀吉は、隠居地を伏見に定めます。当初は邸宅を築く予定でしたが、城に変更。三成は増田長盛浅野長政長束正家前田玄以らとともに、用材集めや移転計画の考案に奔走。

島津領・佐竹領の検地

検地により島津氏と佐竹氏が受けた恩恵を示す図

島津家の後継問題を解決した後、三成は島津領・佐竹領に自らの家臣団を派遣し検地を実行。豊臣秀吉が検地帳を提出させた際に行った検地は、自領を収める諸大名自らが実施していたため、甘めの裁定となっていました。

この結果、島津領で約36万石、佐竹領で27万石ほど石高(見込まれる米の収穫量)が増加。増加した石高分の税収は大名とその一門、豊臣家に友好的な有力家臣に分配。大名の家臣団に平等に分配されたり、没収されたりしたわけではありません。つまり、検地は大名にとっても税収が増加する嬉しい政策だったのです。

一方で、豊臣政権に対して有利な政策も施しています。大名の領地内に、豊臣氏の直轄地や石田三成など豊臣政権の中枢を担う家臣団の領地を設置して代官を派遣し支配。領地内にこのような土地を設けることで、豊臣政権の人物が直接大名を監視。さらに、増加した税収を当主のみの収益としなかったとで、大名家は力つけるも、個人が力をつけることを抑止しましました。

佐和山城

石田三成の居城と領地を示す地図

三成は豊臣秀吉の直轄地として管理を任されていた、近江佐和山城が与えられました。当時の史料では、三成が支配した領地での米の収穫量は19万石程度とも30万石程度とも言われていますが定かでありません。

ただし、豊臣秀吉の直轄地として、7万石程度が含まれていたことを考慮すると、一広くに知られている佐和山20万石が近いと思われます。

三成の領地では管理が徹底され、領民に管理の方針を明確に知らせ透明性を確保しつつ、領民自身が不当な搾取を訴え出る権利を保証されていました。豊臣政権内の政務で培った三成の経験が多いに反映されていたのです。

京都所司代就任

京都所司代の構成員と京の位置を示す図

豊臣秀吉は、朝鮮出兵に際して関白の位を甥の秀次に譲っています。しかし、1年も経たずに豊臣秀吉に実子の秀頼が誕生。これを境に二人の仲を次第に悪くなっていました。

そしてついに、豊臣秀次に謀反の疑いが浮上。真偽はともかくとして、豊臣秀吉は三成と増田長盛を派遣し秀次に問いただします。

結局豊臣秀次は関白の地位を追われ、高野山に追放後切腹させられます。豊臣秀次と親しかった諸大名の中にもこの事件に巻き込まれた者が多くいました。浅野長政も息子の幸長が豊臣秀次を擁護したことから、豊臣秀吉の怒りを買い、重要な政務から外されています。

政権内の大事件であったため、三成らは混乱を防ぐための書状を諸大名に送付。また、豊臣秀頼への忠誠を誓う宣誓書を提出。有力大名もこれに倣います。

三成は豊臣秀次切腹させた事件の後、増田長盛とともに京都所司代に就任。前田玄以が以前から任じられていたので三人制となります。三成は下京を担当し、秀次事件後の処理を行なっていたようです。ちなみな、三成は豊臣秀次の旧臣を家臣に加えています。

五奉行制の先駆け

五奉行の前駆組織とその関係性を示す図

この頃になると、後に五奉行と呼ばれる組織の先駆けのような繋がりが誕生します。三成、増田長盛長束正家前田玄以の4人が連携し政務担うという誓約書が提出されます。ただし、「五奉行」という役職は豊臣秀吉死後にもなかったことは注意が必要。後世の人が言い出したものです。

第二次朝鮮出兵で不興

第二次朝鮮出兵に派遣された監察と諸将の争いを示す図

豊臣秀吉は明の正式な使節大阪城で会うものの明側が、日本側の要求を認めませんでした。そのため、豊臣秀吉は朝鮮への再出兵を命じます。第二次朝鮮出兵の目的は、朝鮮半島の南部半分を日本の領土として実力で認めさせること。豊臣秀吉は明に、朝鮮半島の南半分を日本が領有することを要求していました。

出兵目的が明の征服であった最初の出兵よりも、目的が大きくなかったこともあり石田三成らは渡海しませんでした。ちなみに、三成はこの出兵に反対だった様子。日本の統一で満足すべきという書状が残っています。

代わりに、現地の戦況を伝えさせるとともに、諸将の活躍を公正に評価するために、目付衆(監察)を派遣。目付衆からの報告は石田三成ら奉行衆に届けられ、豊臣秀吉に伝えられました。目付衆として派遣されたのは以下の武将です。

この中で、熊谷直盛と福原長尭は石田三成の親戚です。この二人が後に、三成と朝鮮に派遣された武将との間に悔恨を残す事件に関与します。

第二次朝鮮種出兵の中で行われた激戦に、蔚山城の戦いがあります。加藤清正ら1万がが築城したばかりの蔚山城に籠城し、6倍近くの明・朝鮮連合軍の攻撃を10日間も耐え抜いた戦いです。この戦いでは、日本軍の援軍が蔚山城に駆けつけたことで、日本軍の勝利となります。

蔚山城の戦いの後、救援の援軍に派遣された武将だった蜂須賀家政黒田長政が、戦いに加わらなかったと、垣見一直、福原長尭、熊谷直盛が豊臣秀吉に報告。これにより、両者は豊臣秀吉に叱責されます。蜂須賀家政に至っては一時的に帰国した際に、そのまま領地の阿波(徳島県)で謹慎を命じられました。

黒田長政蜂須賀家政は福原長尭、熊谷直盛が三成の親戚であったことより、報告を行った両者だけでなく三成にまで恨みを抱くことになったのです。

佐竹氏を全力で擁護

宇都宮国綱と佐竹義宣の居城を示す地図

朝鮮で諸将が戦いに勤しんでいる間も、三成は休んでいるわけではありません。蔚山城の戦いの少し前、国内では大問題に発展しかねない事態が起きていました。宇都宮の宇都宮国綱が突如、所領を没収されます。

何が問題なのだと思うかもしれませんが、大問題です。宇都宮国綱は佐竹氏の親戚にあたります。つまり、佐竹氏も連座(一族も処罰を受けること)により処分を受ける可能性が生じたのです。

三成はこれを全力で回避するために、豊臣秀吉に佐竹氏の取りなしを行うとともに、佐竹義重(佐竹氏の前当主)の上洛を指示。浅野長政に見つからないように上洛するよう指示しています。このことから、浅野長政と三成の政争が指摘されることもありますが、詳しくはわかっていません。この頃から、浅野長政は政務に復帰しています。

三成の取り成しもあったからか、最終的に佐竹氏への処分は見送られました。宇都宮には蒲生氏が、蒲生氏が去った会津には上杉氏が、上杉氏が去った春日山には堀秀治が与えられたのです。

筑前筑後へ代官派遣

石田三成が支配した筑前と筑後の位置を示す地図

小早川秀秋が朝鮮から帰国。豊臣秀吉は、朝鮮に渡海していた小早川秀秋に再三に帰国命令を出していたのです。そして、帰国していた小早川秀秋に、筑前筑後(福岡県の一部)から越前(福井県)への転封を命じました。

豊臣秀吉は、三成に筑前筑後四郡の支配を持ち掛けますが、三成はこれを拒否。そこで豊臣秀吉は、三成に代官を派遣し筑前筑後を統治することを命じました。豊臣秀吉は、三成、福島正則増田長盛を大将にして更なる朝鮮出兵を目論んでいた様子だったので、三成の筑前筑後支配はその布石だったのかもしれません。

三成は筑前筑後の代官支配の体制を築くために現地に赴くも、わずか約1月半で京に舞い戻ることに。豊臣秀吉の死期が迫っていました。

豊臣秀吉の死

五大老と五奉行の構成員を示す図

京に戻った三成は豊臣秀吉の見舞いに行きました。そして、来年に予定していた大阪城の大規模な改築を実行。大阪城豊臣秀頼の居城となる城だったので、改築は急務だったのです。

一方で、三成が代官を派遣し支配することとなっていた小早川秀秋の旧領は浅野長政と分けて統治することとなります。これも、豊臣秀吉の死期が近づいたからでした。

豊臣秀吉は自身の死を悟り、遺言をしたためます。自身の死後は「五人の衆」などと呼ばれる「五大老」、「五人の者」と呼ばれる「五奉行」で政権運営を行わせようとしました。「五大老」、「五奉行」という呼称は後世の人が作った呼び名です。

1598年8月18日、豊臣秀吉は死去。三成は五奉行として政権運営を担うことを期待されたのです。しかし、豊臣秀吉の死後の政権運営豊臣秀吉の期待通りには進みませんでした。五大老五奉行を含めた諸大名が対立や結託を実行。最大の実力者、徳川家康も動き始めます。三成は、増田長盛長束正家前田玄以らと行動をともにしました。

朝鮮出兵の後始末

このような中で、朝鮮に渡っていた諸将の撤退が決定。三成は浅野長政毛利秀元とともに出迎えを命じられ、九州に向かいました。諸将の出迎えを終えると、三成は大阪に帰還。

三成が代官を派遣し統治を任されていた筑前筑後小早川秀秋に返還されます。これは、豊臣秀吉の遺命でした。朝鮮出兵が取り止めになり、朝鮮半島に近い筑前筑後を三成が管理する必要なくなったためと考えられています。

毛利家の領土問題

毛利秀元への割譲地の変遷を示す図

五大老にも任命された中国地方の大大名、毛利輝元は領土問題を抱えていました。毛利秀元への領地割譲問題です。この問題を利用して、三成らは毛利輝元を自陣営への抱き込みを図ります。

毛利輝元は長い間子供に恵まれませんでした。豊臣秀吉毛利輝元の養子として、自身の養子となっていた豊臣秀俊を送り込む計画を立案。毛利氏を豊臣氏に取り込もうとしたのです。豊臣秀吉はこれを毛利輝元の家臣、小早川隆景に相談。

小早川隆景は主家を守るために、豊臣秀俊を自身の養子にするよう豊臣秀吉に懇願。一方、毛利輝元は従弟の毛利秀元を養子としました。ちなみに、小早川隆景の養子となった豊臣秀俊が、ここでも何度か登場した小早川秀秋です。

この後、毛利輝元男児を授かります。この男児は、豊臣秀吉に毛利家の次期当主と認められました。一方で、豊臣秀吉は、毛利秀元への領地割譲を厳命。

  • 出雲
  • 銀山を除く石見

上記の土地を毛利秀元に譲らせようとしたのです。豊臣秀吉は巧みに、毛利氏の勢力を削ごうとします。しかし、豊臣秀吉が亡くなったためこれは実現されませんでした。

これに目を付けた三成と増田長盛は、毛利秀元への割譲地を以下に改めます。

割譲地は豊臣秀吉の裁定よりも石高は少なく、毛利輝元に有利でした。豊臣秀吉死後、不安定な政権運営が続く状況下で、三成らは毛利氏を自陣営に加えようと画策したのでした。

前田利家の死

豊臣秀吉が存命時から、徳川家康に対抗できる唯一の人物として目されていたのが、前田利家です。前田利家豊臣秀吉の死後も、一定の勢力を保持。前田利家豊臣秀吉死後に、三成擁護派として描がかれることもありますが、常に味方だったようではありません。

前田利家豊臣秀吉の死期が迫った頃には体調を崩すようになっていました。そして、豊臣秀吉の死から1年も経たずに、前田利家は死去。ここから、事態は目まぐるしく変化します。

石田三成襲撃事件と隠居

石田三成襲撃事件の経緯を示す図

豊臣政権下で大きな影響力を持っていた前田利家の死は、直ちに顕在化。七将が、大阪城下の石田三成の屋敷を襲撃したのです。石田三成襲撃事件の原因や七将の、顔ぶれについては未だに正確にはわかっていません。七将の候補として以下のような武将が挙げられています。

これらの武将による襲撃を受けた三成は、伏見城の治部少丸にあった自分の屋敷に逃れました。治部少郭という名の通り伏見城の防御施設の一角を占めていたと思われます。また、伏見城には増田長盛前田玄以も在城しています。

伏見城の治部少丸に逃げ込んだ三成は敵対姿勢を見せます。毛利輝元に尼崎への出陣を要請するなど、当初は徹底抗戦するつもりだったようです。

しかし、最終的には毛利輝元上杉景勝に最終判断を任せました。両者は徳川家康と話し合った上で石田三成の処分が決定します。三成への処分は佐和山城での謹慎でした。徳川家康が主導で処分を決めたようです。この処分を聞いた三成は心が折れた様子だったと記されています。

さらに、七将は増田長盛に対する処分も要求していたと言われていますが、三成の処分のみで事件は解決。最終的に、石田三成襲撃事件を解決に導いた徳川家康の株だけが挙がる形で収束しました。

加賀征伐

加賀征伐の経緯を示す図

徳川家康石田三成襲撃事件後、伏見城から大阪城に移動。三成の屋敷を居所としました。突如、前田利長(前田利家の息子)に徳川家康暗殺計画の嫌疑浮上。前田氏は、利家死後も一定の勢力を持っていました。

徳川家康は、前田利長が軍勢を率い上洛するのを防ぐために北陸方面へ軍勢を派遣。興味深いことに、北陸方面には石田軍も派遣されたそうです。これに関しては、三成が徳川家康に協力的だったとも、協力的な振りをしたとも解釈が別れます。

一方の前田利長は直ちに、母の松を人質として江戸(徳川家康の本拠地)に差し出し嫌疑を晴らします。こうして、加賀征伐は中止となりました。

会津征伐

会津征伐の経緯を示す図

加賀征伐は中止に至るも、翌年になると会津上杉景勝に謀反の嫌疑が掛けられます。徳川家康は上洛を要求するも、上杉景勝は延期を求めました。

上杉景勝は領地が会津に代わったばかりで、支配体制を築くために帰国していたのです。そして、帰国を勧めたのは、謀反の嫌疑をかけたのは徳川家康。企みの匂いがします。徳川家康上杉景勝の延期の申し出を撥ね付け、会津征伐を実行。諸大名に会津征への従軍を要請。

ここで、触れておくべきことがあります。増田長盛前田玄以長束正家会津征伐への従軍を諸大名に要請していることです。この時点で、三奉行(浅野長政はこれ以前に謹慎させられている)は、会津征伐を支持しています。会津征伐に対し三奉行が積極的だったのか、渋々認めたのかまではわかりませんが、少なくとも認めていたのです。

会津征伐には、大谷吉継も軍勢を率い参加する予定でした。しかし、美濃(岐阜県南部)垂井で体調を崩し進軍を中断。ここで、三成は大谷吉継と談義を交わし、徳川家康討伐のために挙兵を決意したと言われています。

これが、三成が関ヶ原の戦いにおける西軍挙兵を主導した説の論拠の一つです。しかし、この話は後世の創作の可能性もあり、確実視できるわけではありません。

内府ちがひの条々

内府ちがひの条々の発行者を示す図

一方で大阪城にいた三奉行は、毛利輝元大阪城に入ることを要請。また、諸大名の屋敷を軍事的に制圧。その後、西軍の宣戦布告とされる「内府ちがひの条々」を毛利輝元宇喜多直家、三奉行が発行。

三成がこれまでの経緯に対し、どの程度関わっていたか定かではありません。西軍挙兵を主導したという説もあれば、反対に全く関わらなかった説まであります。ここでは、三成の西軍挙兵への関与はまだわかっていないのです。

ここからは筆者の見解です。「内府ちがひの条々」の発行者として、三成の名はありません。しかし、これを以って石田三成が、西軍挙兵の主導者ではないと断じるのは早急な気がします。

なぜなら、この時点で三成は、謹慎処分の身だからです。職を追われ、謹慎中の三成の名が書状にあれば、書状が持つ権威は低下すると思われます。そのため、主導者であったとしても、この時点では名を連ねるにはリスクが高過ぎます。実際に、内府ちがひの条々が出される前に、三成が三奉行らと談義を重ねていたなどと記された書状も残っています。

畿内平定と上杉景勝との連携

西軍が出兵した畿内の場所と上杉景勝の連携を示す地図

三成ら西軍は、徳川家康が「内府ちがひの条々」により正当性を失ったことで動きが取れなくなると予想。この隙に畿内(京周辺)の制圧に取り掛かります。

徳川家康に与した細川忠興の領地、丹後(京都府北部)征伐、徳川家康の家臣が守っていた伏見城攻略を実行。三成も伏見城攻めに途中から加わっています。

さらに、三成は会津上杉景勝徳川家康を北から牽制することを要請するために、信濃の(長野県)真田昌幸を介して書状を再三送付。これが、上杉景勝に届いたかまでわかっていませんが、三成が上杉景勝との連携の重要性を考えていた事実は残っています。

東軍の素早い西上

西軍が平定しようとし美濃、伊勢、北陸を示す地図

西軍はさらに、伊勢(三重県の一部)、美濃(岐阜県南部)、北陸の平定を画策。三成は上杉景勝と連携することで、徳川家康会津に釘付けにしている最中にこれら地域を平定。

そして、徳川家康が正当性を失ったことにより、会津征伐に従軍した諸将が寝返ることを期待。徳川家康とは、尾張から三河に渡る愛知県のどこかで決戦を挑むつもりだったようです。

しかし、三成の思い通りに事は運びませんでした。会津征伐に従軍した諸将の寝返りはなく、また東軍は東海道を想定より早く西上。当初の想定とは異なる形で決戦を迎えることになります。当初は尾張から三河の愛知県で東軍を迎え撃つ予定でしたが、美濃にて決戦を行うことになります。三成は美濃方面の総指揮を務めていたことから、東軍との決戦でも大将を任されました。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いの経緯を示す図

三成は関ヶ原の戦いに先立ち、予定通りに物事が進まないこと、西軍諸将の戦意が高くないことに苛立っていた模様。大阪城に向けた書状で嘆いています。

長束正家安国寺恵瓊が、戦略的価値の低い場所に陣取ったり、諸将が、食料調達のために田んぼの稲を刈り取ることすらしなかったりすることを非難。また、小早川秀秋に裏切りの兆候があることも見抜いています。

大阪城に向けても毛利輝元の出陣要請や、これが叶わずとも毛利軍を佐和山城まで派遣することを要請。東軍から寝返りが出ないのは、大阪城にいる諸将の人質の扱い方が手ぬるいからだという非難まで行なっています。

最終的に東軍の諸将に続き、徳川家康も美濃に到着。関ヶ原にて決戦が行われたのです。詳しい経過は以下を参考にして下さい。

関ヶ原の戦い:戦いで読み解く戦国史

三成の軍勢は関ヶ原の戦いで善戦するも、黒田長政の部隊から横槍を受けたことを契機に崩れます。西軍には戦意の低い諸将や裏切り者がいたため敗退。三成は逃亡しました。

最期

逃亡した三成は伊吹山に潜伏。しかし、程なくして田中吉政の手の者により捕縛されます。近江(滋賀県)伊香郡古橋村にて捕まったそうです。三成は徳川家康と大津城で面会。徳川家康は、三成を敗軍の将としではなく厚く接したようです。

その後、三成は小西行長安国寺恵瓊とともに大阪・堺を見せしめで引き回された後、京へ身柄は移送。京でも引廻された後、その日の内に最期を迎えることになります。

1600年10月1日、三成は小西行長安国寺恵瓊とともに、六条河原にて斬首。三条大橋にて三人の首は晒されました。