関ヶ原の戦いにおける布陣の順番
関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が当日一斉に軍を揃えて戦ったわけではありません。ここでは、関ヶ原の戦いまでに両陣営の布陣ができあがるまでの流れを、時系列に従って紹介したいと思います。
大谷吉継ら布陣
9月3日(関ヶ原の戦いの12日前)
大谷吉継らは、西軍として北陸方面の平定を担当していました。しかし、当初の予定とずれが生じ、美濃(岐阜県)で東軍を迎え撃たなければならなくなると、美濃方面の援軍を要請されます。そして、9月3日頃には、関ヶ原に布陣します。
南宮山に中国・四国勢布陣
9月8日頃(関ヶ原の戦いの約1週間前)
大谷吉継らに続いて布陣するのは、西軍の中国・四国地方を本拠地とする勢力です。中国・四国勢は、南宮山に布陣しました。
大谷吉継らもですが、中国・四国勢は大垣城(岐阜県)に籠る石田三成の後詰のつもりで、関ヶ原や南宮山に陣を敷いたと思われます。
石田三成が大垣城を退去して関ヶ原へ
9月14日(関ヶ原の戦いの1日前)
石田三成らは、9月14日の夜に夜陰に乗じることで大垣城を脱出し関ヶ原に移動しました。大垣城を退去した理由は、大軍で小城に籠城するよりも、大谷吉継や中国・四国勢と合流し野戦を挑んだ方がよいと考えたからです。詳しくは以下を参考にして下さい。
小早川秀秋が松尾山に布陣
9月14日(関ヶ原の戦いの1日前)
西軍は松尾山に名前の通りですが、松尾山城という城を築きました。これは、元々あった城を修復したものです。
西軍は本来ならば、この城に中国地方の軍、つまり毛利軍に入ってもらう予定でした。そのため、毛利軍が入城するまでの間、伊藤盛正という名の武将が代理で城主を務めていました。しかし、小早川秀秋がやってきて、伊藤盛正を追い出し乗っ取ってしまいます。
実は、小早川秀秋は少し前から、不審な行動を取っていたため、西軍に疑惑を抱かれていました。そこで、小早川秀秋は身の危険を感じて、逃げ込む形で松尾山城に入ったのでした。
西軍は、小早川秀秋に松尾山城に入られたことが、翌日起こる戦いの決定打になるとは、思わなかったでしょう。
東軍が関ヶ原へ
9月15日(関ヶ原の戦い当日)
東軍は9月15日の未明には関ヶ原に移動しました。この決定を下す前、徳川家康は石田三成らが大垣城を退去し、関ヶ原で野戦を挑もうとしていることを知り喜びました。
なぜなら、9月15日に黒田長政から、松尾山に陣を敷く小早川秀秋が西軍を裏切り、東軍に味方する旨を伝えてきたからです。このように、上両陣営がそれぞれ思惑を抱きつつ成り行き上、関ヶ原で決戦することになったと考えられます。