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黒田長政の簡単解説:web武将名鑑

黒田長政は、父黒田孝高と比較されて劣っていると評価されることが多いです。しかし、黒田長政も父に劣らない軍略家でした。ここでは黒田長政について見てみましょう。

黒田長政の肖像画

~基本情報~

  • 生存年:1568年~1623年 (55歳)
  • 最高官位従四位下 筑前
  • :黒田氏
  • 幼名:松寿丸

< 総括 >

父孝高に劣らず謀略や調略を使いこなすことに長けていた。一方で、父孝高とは異なり、勇猛な武将としても知られ、実際の戦闘では自ら槍を持ち、陣の先頭にたって戦った。

織田家人質時代

姫路城と長浜城の位置を示す図

黒田長政は、黒田孝高の嫡男として、播磨の姫路城(兵庫県)で誕生しました。父孝高は、織田信長の家臣で、中国方面の攻略を担っていた豊臣秀吉に従うことになります。

そのため、長政は幼くして人質となり、豊臣秀吉の居城、長浜城(滋賀県)に送られました。長浜城では、豊臣秀吉の妻おねに、わが子同然に養育されたそうです。

九死に一生を得る

1578年、荒木村重織田信長に対して反旗を翻し、居城の有岡城(兵庫県)に籠城しました。そこで、荒木村重と懇意にしていた黒田孝高は、荒木村重を説得するために有岡城に乗り込みました。しかし、説得は失敗に終わり、黒田孝高は捕らえられてしまいます。

菩提山城と長浜城の位置を示す図

織田信長黒田孝高有岡城から戻らなかったため、裏切ったと考え、幼い長政の処刑を命じました。このままいけば、長政は処刑されて後の世に名を残すことはなかったでしょう。

しかし、ここで黒田孝高の同僚、竹中重治が機転を利かせます。密かに長政を居城の菩提山城に匿いました。そして、有岡城落城後に、救出された黒田孝高、長政父子は再会することができました。

九州に領地を得る

織田信長豊臣秀吉に命じた中国攻めが、長政の初陣でした。15歳にして、敵を討ち取ったそうです。

このような中、織田信長本能寺の変で亡くなります。豊臣秀吉は直ちに京都に引き返し、明智光秀と戦って勝利しました。豊臣秀吉はこれを機に、織田家を超える権勢を手中に収めます。

その後、豊臣秀吉は天下を統一するために、諸将を動員して各地の平定戦を行いました。長政もこれに従い、各地を転戦します。特に、長政は九州征伐の財部城攻めで手柄を立てました。

黒田親子の所領と居城を示す図

九州征伐後に、父孝高と長政の功績を合わせて、豊前6郡、12万5000石が与えられました。その後、父孝高は中津城を築き居城にしました。 

反対勢力の排除

豊前に領地を与えられた孝高、長政父子は検地など領国経営を行います。しかし、ここで豊前の国人衆(地元の有力武士)が結束して抵抗しました。

城井谷城の位置を示す図

特に厄介だったのが城井鎮房です。長政は、城井鎮房の本拠地、城井谷の攻略を試みますが、逆に大敗を喫しました。そこで、付城を築いて持久戦に持ち込みます。すると、城井鎮房は、娘を人質にすることを条件に降伏を申し出ました。しかし、降伏を受け入れる許可を、豊臣秀吉が出しませんでした。

そこで、長政は誅殺を決意します。降伏を受け入れるふりをして、城井鎮房中津城に呼び出します。城井鎮房のみを中津城に招き、城井家家臣団は近くの寺に留め置かせました。そして、宴の最中城井鎮房を謀殺します。その後、城井家家臣団がいる寺にも黒田家家臣を派遣し、全員を切り殺しました。

このようして、有力国人城井家を排除することに成功しました。

黒田家を当主として朝鮮へ渡航

1589年、長政は黒田家の家督を父孝高に譲られ、黒田家当主となりました。そして、豊臣秀吉が行った、朝鮮出兵では、黒田家当主として、軍勢を率いて朝鮮半島に渡りました。

文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、三番隊の主将として5000人を率い、一番隊、二番隊とは異なるルートで漢城(ソウル)まで攻め込みました。その後、三番隊は黄海道を任されて、平壌まで進撃後、撤退します。

長く続く戦いに、朝鮮側の援軍として派遣されていた明軍は指揮が低下します。一方、日本軍は兵糧の問題を抱えることになりました。そこで、和平交渉が行われますが、最終的に決裂します。

和平交渉決裂により起きた、慶長の役(第二次朝鮮出兵)では、長政は忠清道の攻略を任されました。そして、稷山の戦いでは、毛利秀元の援軍もあり明軍に勝利します。その後は、朝鮮半島南部に梁山倭城を築きその防備にあたります。結局、朝鮮出兵は、豊臣秀吉の死により終わりを迎え、日本軍は朝鮮半島から撤退しました。

関ヶ原最大の功労者

長政は日本に帰国すると、豊臣秀吉死後に専横を極める徳川家康に接近します。長政は、蜂須賀正勝の娘糸姫と結婚していましたが、離婚し徳川家康の養女となった栄姫と結婚しました。一方で、徳川家康は豊臣政権の他の大老や奉行から、横暴な振る舞いが非難されます。

このような中で、大阪城下の石田三成の屋敷が七将により襲撃されました。長政は、この七将の中の一人であったと言われています。石田三成は、事件の責任を取る形で、謹慎処分を言い渡されました。

その後に起きた関ヶ原の戦いで、長政は東軍(徳川方)につき、勝利を呼び込む重要な働きをしました。長政は、関ヶ原の戦いの前に西軍の小早川秀秋吉川広家に対し調略を仕掛け、内応させることに成功します。

関ヶ原の戦いで、小早川秀秋は西軍を裏切り、見方の大谷吉継の部隊に突撃し壊滅させ、そのまま宇喜多秀家小西行長の軍にまで攻めかかりました。この一手が、西軍の敗北を決定づけます。

一方、吉川広家は、東軍の後方に陣を敷き背後からの攻撃を行うことができましたが、長政の調略により寝返っていたため、戦闘らしい戦闘は行いませんでした。

黒田長政の居城と所領を示す図

関ヶ原の戦いでの功績により、黒田長政には筑前名島52万3000石が与えられました。そして、名島城を廃して、居城を福岡城に定めます。

晩年

その後の長政についですが、大坂冬の陣では江戸で留守居役を任されました。しかし、夏の陣には徳川秀忠に従い参陣しました。そして、1623年京都で亡くなりました。55歳でした。