黒田長政の簡単解説:web武将名鑑
黒田長政は、父黒田孝高と比較されて劣っていると評価されることが多いです。しかし、黒田長政も父に劣らない軍略家でした。ここでは黒田長政について見てみましょう。
~基本情報~
< 総括 >
父孝高に劣らず謀略や調略を使いこなすことに長けていた。一方で、父孝高とは異なり、勇猛な武将としても知られ、実際の戦闘では自ら槍を持ち、陣の先頭にたって戦った。
織田家人質時代
黒田長政は、黒田孝高の嫡男として、播磨の姫路城(兵庫県)で誕生しました。父孝高は、織田信長の家臣で、中国方面の攻略を担っていた豊臣秀吉に従うことになります。
そのため、長政は幼くして人質となり、豊臣秀吉の居城、長浜城(滋賀県)に送られました。長浜城では、豊臣秀吉の妻おねに、わが子同然に養育されたそうです。
九死に一生を得る
1578年、荒木村重が織田信長に対して反旗を翻し、居城の有岡城(兵庫県)に籠城しました。そこで、荒木村重と懇意にしていた黒田孝高は、荒木村重を説得するために有岡城に乗り込みました。しかし、説得は失敗に終わり、黒田孝高は捕らえられてしまいます。
織田信長は黒田孝高が有岡城から戻らなかったため、裏切ったと考え、幼い長政の処刑を命じました。このままいけば、長政は処刑されて後の世に名を残すことはなかったでしょう。
しかし、ここで黒田孝高の同僚、竹中重治が機転を利かせます。密かに長政を居城の菩提山城に匿いました。そして、有岡城落城後に、救出された黒田孝高、長政父子は再会することができました。
九州に領地を得る
織田信長が豊臣秀吉に命じた中国攻めが、長政の初陣でした。15歳にして、敵を討ち取ったそうです。
このような中、織田信長が本能寺の変で亡くなります。豊臣秀吉は直ちに京都に引き返し、明智光秀と戦って勝利しました。豊臣秀吉はこれを機に、織田家を超える権勢を手中に収めます。
その後、豊臣秀吉は天下を統一するために、諸将を動員して各地の平定戦を行いました。長政もこれに従い、各地を転戦します。特に、長政は九州征伐の財部城攻めで手柄を立てました。
九州征伐後に、父孝高と長政の功績を合わせて、豊前6郡、12万5000石が与えられました。その後、父孝高は中津城を築き居城にしました。
反対勢力の排除
豊前に領地を与えられた孝高、長政父子は検地など領国経営を行います。しかし、ここで豊前の国人衆(地元の有力武士)が結束して抵抗しました。
特に厄介だったのが城井鎮房です。長政は、城井鎮房の本拠地、城井谷の攻略を試みますが、逆に大敗を喫しました。そこで、付城を築いて持久戦に持ち込みます。すると、城井鎮房は、娘を人質にすることを条件に降伏を申し出ました。しかし、降伏を受け入れる許可を、豊臣秀吉が出しませんでした。
そこで、長政は誅殺を決意します。降伏を受け入れるふりをして、城井鎮房を中津城に呼び出します。城井鎮房のみを中津城に招き、城井家家臣団は近くの寺に留め置かせました。そして、宴の最中城井鎮房を謀殺します。その後、城井家家臣団がいる寺にも黒田家家臣を派遣し、全員を切り殺しました。
このようして、有力国人城井家を排除することに成功しました。
黒田家を当主として朝鮮へ渡航
1589年、長政は黒田家の家督を父孝高に譲られ、黒田家当主となりました。そして、豊臣秀吉が行った、朝鮮出兵では、黒田家当主として、軍勢を率いて朝鮮半島に渡りました。
文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、三番隊の主将として5000人を率い、一番隊、二番隊とは異なるルートで漢城(ソウル)まで攻め込みました。その後、三番隊は黄海道を任されて、平壌まで進撃後、撤退します。
長く続く戦いに、朝鮮側の援軍として派遣されていた明軍は指揮が低下します。一方、日本軍は兵糧の問題を抱えることになりました。そこで、和平交渉が行われますが、最終的に決裂します。
和平交渉決裂により起きた、慶長の役(第二次朝鮮出兵)では、長政は忠清道の攻略を任されました。そして、稷山の戦いでは、毛利秀元の援軍もあり明軍に勝利します。その後は、朝鮮半島南部に梁山倭城を築きその防備にあたります。結局、朝鮮出兵は、豊臣秀吉の死により終わりを迎え、日本軍は朝鮮半島から撤退しました。
関ヶ原最大の功労者
長政は日本に帰国すると、豊臣秀吉死後に専横を極める徳川家康に接近します。長政は、蜂須賀正勝の娘糸姫と結婚していましたが、離婚し徳川家康の養女となった栄姫と結婚しました。一方で、徳川家康は豊臣政権の他の大老や奉行から、横暴な振る舞いが非難されます。
このような中で、大阪城下の石田三成の屋敷が七将により襲撃されました。長政は、この七将の中の一人であったと言われています。石田三成は、事件の責任を取る形で、謹慎処分を言い渡されました。
その後に起きた関ヶ原の戦いで、長政は東軍(徳川方)につき、勝利を呼び込む重要な働きをしました。長政は、関ヶ原の戦いの前に西軍の小早川秀秋、吉川広家に対し調略を仕掛け、内応させることに成功します。
関ヶ原の戦いで、小早川秀秋は西軍を裏切り、見方の大谷吉継の部隊に突撃し壊滅させ、そのまま宇喜多秀家、小西行長の軍にまで攻めかかりました。この一手が、西軍の敗北を決定づけます。
一方、吉川広家は、東軍の後方に陣を敷き背後からの攻撃を行うことができましたが、長政の調略により寝返っていたため、戦闘らしい戦闘は行いませんでした。
関ヶ原の戦いでの功績により、黒田長政には筑前名島52万3000石が与えられました。そして、名島城を廃して、居城を福岡城に定めます。
晩年
その後の長政についですが、大坂冬の陣では江戸で留守居役を任されました。しかし、夏の陣には徳川秀忠に従い参陣しました。そして、1623年京都で亡くなりました。55歳でした。