池田輝政の簡単解説:web武将名鑑
ここでは、池田輝政について紹介しています。池田輝政は、小城だった姫路城を世界遺産に登録されるような城にした人物です。
織田家重臣の次男
池田輝政は、池田家の次男として誕生しました。1573年、母の兄で輝政にとって伯父にあたる荒尾善久の養子となり、木田城の城主となります。輝政の初陣は、織田信に反旗を翻した荒木村重が籠る、有岡城(兵庫県)攻めであったと言われています。
初陣から2年後、輝政は荒木村重が逃げこんだ、花隈城(兵庫県)の攻めで、織田信長に感状を貰います。花隈城攻めを担当したのは池田家で、総指揮は父恒興がとりました。輝政は花隈城攻めで、荒木軍の武士を5~6名ほど討ち取りこれが賞されました。ちなみに、戦後池田恒興はこの地を織田信長に与えられ、兵庫城を新たに築城しました。
舞い込んできた池田家当主
1582年:本能寺の変
山崎の戦い (18歳)
1583年:池尻城主 (19歳)
1584年:小牧・長久手の戦い
美濃大垣13万石を相続 (20歳)
1585年:岐阜城13万石 (21歳)
1590年:三河吉田城15万2000石 (26歳)
1582年、本能寺の変で織田信長が家臣の明智光秀に殺されます。本能寺の変の直後、明智光秀は山崎の戦いで、中国地方から帰還した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ、逃げる途中に殺されました。池田恒興は、豊臣秀吉方として戦ったため、美濃大垣(岐阜県)13万石が与えられました。そして、輝政は父の領内の池尻城に入りました。
山崎の戦いで、明智光秀を討ち取った豊臣秀吉は、主家の織田家を凌駕する権勢を誇るようになります。これを良く思わなかった織田信長の次男織田信雄が、徳川家康と同盟を結び、豊臣秀吉と戦いしました。小牧長久手の戦いです。
小牧長久手の戦いは池田家にとって不幸な戦いでした。この戦いで、輝政の父恒興と兄元助が戦死してしまいます。この戦いで、輝政は人質として後方にいたため無事でした。その後、輝政は弔い合戦のつもりで、脇田城を攻めましたが失敗しています。
小牧長久手の戦いの後、輝政は池田家の当主となり、美濃大垣13万石を相続して大垣城の城主となりました。その2年後、豊臣秀吉の命により、所領は13万石のままで、岐阜城の城主となります。
この後、輝政は紀州征伐、佐々成政征伐、九州征伐、小田原征伐、など、豊臣秀吉が天下統一のために起こした戦いにも兵を率いて従軍しました。豊臣秀吉は、小田原征伐を行って天下統一を達成すると、輝政に三河吉田城(愛知県)15万2000石を与え増転封しました。
優遇される輝政
豊臣秀吉は天下統一を成し遂げると全国の諸大名に命じて朝鮮出兵を敢行します。しかし、輝政は渡航を免除されました。輝政が与えられた任務は、東国の警備と、朝鮮出兵のための大船の製造や、肥前名護屋城(佐賀県)への兵糧の運搬でした。また、伏見城の普請なども行いました。
また、輝政は豊臣秀吉を仲介役として徳川家康の娘督姫と娶りました。そして、豊臣秀吉に実子が誕生したことで、険悪となった豊臣秀次が切腹させられた事件では、豊臣秀次の一族が悉く処刑される中、妻であった輝政の娘だけは助命されます。
徳川にも優遇される輝政
豊臣秀吉が亡くなると、輝政は徳川家康と誼を通じるようになります。豊臣秀吉の死の翌年、七将が大阪城下の石田三成の屋敷を襲撃しました。輝政はこの七将のひとりであったとも、なかったとも言われています。また、七将が石田三成邸を襲撃した理由も定かではなく、朝鮮出兵での対立が原因、徳川家康が仕組んだなど諸説あります。
関ヶ原の戦いには徳川方として参戦しました。東軍の西上途中の岐阜城攻めでは、福島正則と先鋒を務めます。輝政と福島正則は、別々の道を通って木曽川に到着後、同時に川を渡り岐阜城に攻めかかる予定でした。しかし、木曽川に早く着陣した輝政が、約束を破り岐阜城を落としてしまいました。
そこで、関ヶ原の戦い本戦では、福島正則に先陣を譲り輝政は、南宮山に布陣した西軍を抑える役割を担いました。そのため、ほとんど戦闘らしい戦闘は行われませんでした。
関ヶ原の戦いの後、輝政は播磨一国52万石を、徳川家康に与えられます。そして、姫路城を築き居城としました。
1611年に行われた、二条城での徳川家康と豊臣秀頼との会見に、輝政は同席しました。その2年後、輝政は姫路で息をひきとりました。この後、池田家は幕末まで続きます。