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加藤清正の簡単解説:web武将名鑑

加藤清正は、テレビなどの影響もあり武一辺倒の武将と思われがちです。しかし、優れた行政官としての一面も、見過ごすことはできません。ここでは、加藤清正の生涯について見ていきましょう。

加藤清正の肖像画

~基本情報~

  • 生存年:1562年~1611年 (49歳)
  • 最高官位従四位下 筑前
  • :加藤氏

< 総括 >

朝鮮出兵石田三成らと敵対し、武断派の筆頭格として勇将ではあるが、内政などに疎いと思われがち。しかし、吏僚としての働きも多く、指揮官としても優秀であった。槍働きも得意で、築城の名手としても知られる。

刀鍛冶の息子

加藤清正の誕生地

加藤清正は、尾張愛知郡中村(愛知県)で、刀鍛冶をしていた加藤清忠の息子として生まれました。清正の母が、豊臣秀吉の母、大政所と従姉妹や遠い親戚関係にあったなどと言われています。その縁があって、近江長浜城主(滋賀県)になったばかりの豊臣秀吉に、小姓として仕え始めました。

槍働きで活躍

加藤清正といえば、槍働きが得意な勇敢な武将と言うイメージがありますが、若い頃はその通りの活躍を見せます。 

豊臣秀吉は、織田信長に命じられた中国攻めの一環で、冠山城を攻めました。清正はこの戦いで一番乗りを果たすとともに、竹井将監と言う敵を討ち取りました。

さらに、豊臣秀吉織田信長の死後、仇の明智光秀を敗死させました。そして、豊臣秀吉の勢いは、主家織田家をも凌駕します。

すると、この状況を芳しく思わなかった織田家の宿老、柴田勝家豊臣秀吉に対して挙兵し、賤ヶ岳の戦いが起きました。

清正は賤ヶ岳の戦いで、敵将山路正国を討ち取る活躍を見せます。その結果、「賤ヶ岳の七本槍」の一人として豊臣秀吉に称えられ、3000石の所領が与えられました。

卓越した吏僚としての活躍

加藤清正が優秀な吏僚としての働きを示すのが、賤ヶ岳の戦い後です。賤ヶ岳の戦い以降、清正は実際の戦闘の場に立つことは少なくなります。小牧・長久手の戦いや、四国征伐九州征伐では後方に控え、豊臣秀吉の警護や兵站の管理などを任されていたと考えられます。

さらに、播磨(兵庫県)や和泉(大阪府)にある直轄地の代官を任されたり、尾藤知宣が讃岐(香川県)を取り上げられた後に、新領主が決まるまで統治を行ったりしました。

さらには、九州討伐後の、戦後処理として九州の諸大名への諸事伝達なども任されました。

九州征伐後の加藤清正の居城と所領を示す図

九州征伐後に、肥後(熊本県)で地元の有力武士が一揆を起こしました。この事件の責任をとって、肥後を所領に与えられた佐々成政切腹します。

この後、清正には肥後半国19万5000石が与えられました。これまでの、清正の代官としての力量が評価されたとともに、九州征伐後の戦後処理に関わったこと、九州の事情を知っていたかことがその理由です。清正は隈本城に改修を加え、名も熊本城に改めました。

優秀な指揮官として活躍

文禄の役では、二番隊の主将として1万人の兵を率いて朝鮮半島に渡りました。一番隊を率いた小西行長とは異なるルートで、漢城(ソウル)まで進撃します。そして、漢城で一番隊、三番隊と合流した後、臨津江の戦いで朝鮮軍に勝利しました。 

その後、一番隊、三番隊とは別れて、朝鮮半島の奥地、北東部へ侵攻しました。そして、海汀倉の戦いで朝鮮軍に勝利します。このように、清正率いる二番隊は快進撃を見せますが、これは二番隊が明への侵攻路から外れ、道中に敵が少なかったためです。

実際に、この頃一番隊、三番隊は明軍に苦戦しています。清正はさらに、満州に進出しますが、得られるものがないため撤退しました。

二番隊はこのように快進撃を見せたため、日本国内では清正から挙がる報告は虚偽ではないかと疑われます。このことから、本国との取次ぎを担当していた、石田三成小西行長と不仲になりました。

和平に大反対し謹慎

このような中で、士気が低下した明軍と、兵站に問題を抱えた日本軍との間で和議が提案されます。

清正は和平に反対で、賛成派の石田三成小西行長に対して、反発します。清正を邪魔に感じた小西行長が、豊臣秀吉に清正の不正を訴えました。

そのため、清正は帰国の上、謹慎を命じられまました。一方で、この帰国は石田三成らとの対立が原因ではなく、一時撤退のためとも言われています。真実は明らかとなっていません。

再び指揮官として活躍

慶長の役(第二次朝鮮出兵)では、当初の作戦通り、清正は全羅道を蹂躙した後に、朝鮮半島南部へ撤退しました。そして、日本軍は朝鮮半島南部で築城を開始します。

築城の得意な清正は、蔚山倭城の設計を担当し、建設は浅野幸長毛利秀元の軍勢が担いました。この後、清正は蔚山倭城と、西生浦倭城の守備を担うことになっていました。

しかし、蔚山倭城の完成間近に、明軍5万7000人が攻めかかってきました。近くにいた浅野幸長らは蔚山倭城に籠ります。この時、清正は西生浦倭城にいましたが、知らせを聞くと500人の手勢を率いて、蔚山倭城に駆けつけともに籠城しました。

完成間近で、兵糧や水の備蓄がない中、清正らは援軍が到着するまで、10日間城を守りぬきました。その後、明、朝鮮軍は日本軍の援軍や清正ら籠城軍と戦い2万人もの被害を出し撤退しました。

徳川家康に接近

豊臣秀吉朝鮮出兵中に亡くなりました。これを以って、朝鮮に派遣された軍勢は帰国することになります。

一方で、豊臣秀吉の死を、好機と捉えた人物がいます。徳川家康です。徳川家康は、豊臣秀吉が存命している間に決めた取り決めを無視して、専横を行います。その結果、徳川家康の専横を糾弾する武将たちが現れます。

清正は徳川家康の養女を妻に迎え入れ、誼を通じました。無断で大名同士の縁組も禁じられていたため、この縁組も取り決め違反です。

このような中、大阪城下にある、反徳川家康派の石田三成の屋敷が、七将によって襲撃されました。この七将の中の一人は、清正だったと考えられていています。石田三成はこの事件の責任を取らされる形で、居城での謹慎を言い渡されました。

関ヶ原の戦いは不参加

その後、薩摩(鹿児島県)を本拠地とする大名、島津氏の重臣の、伊集院忠真が反乱を起こしました。清正は密かに、伊集院忠真を支援していました。

この反乱の解決は徳川家康に任され、清正の関与が発覚します。そのため、徳川家康は清正に謹慎を命じました。

謹慎処分を受けていたため、会津征伐と、続く関ヶ原の戦いへの清正の同行は許されず国元の肥後にいました。そこで、清正は西軍方で、肥後南半国を支配していた小西行長宇土城(熊本県)、筑後立花宗茂柳川城(福岡県)などを攻める軍事行動に出ます。清正は、関ヶ原の戦い後も攻め続け、これらの城を落城、開城させました。

関ヶ原の戦い後の加藤清正の居城と所領を示す図

そして、肥後南半国と筑後で自分が攻め取った領土を、領地に加えてもらえるように、徳川家康に要請しました。その結果、清正には小西行長の領地が新たに与えられ、肥後52万石の領有が認められました。 

豊臣家への忠誠心と晩年

加藤清は関ヶ原の戦い後も、豊臣秀頼への忠誠心は厚かったというイメージが強いと思います。清正の忠誠心が示されるエピソードが、二条城(京都府)での、豊臣秀頼徳川家康の会見です。この時、豊臣秀頼の警護を行ったのが、加藤清正だと言われています。

しかし、これは史実とは異なります。二条城の会見で清正が警護したのは豊臣秀頼ではなく、娘婿となることが決まっていた、徳川頼宜でした。この時点で、清正は徳川家の家臣という立場でした。

清正の豊臣家への義理立てを垣間見ることができるのは、豊田家と徳川家の溝を埋める為に、二条城の会見で豊臣秀頼徳川家康との対面の場を設けたことです。また、江戸時代以降も、肥後の豊臣家直轄地を維持し、年貢を大阪まで送っていたことからも清正の義理立てが窺えます。

そして、清正は二条城の会見から熊本への帰路の途中に病気になり、熊本で亡くなりました。49年の生涯でした。