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蜂須賀家政:web武将名鑑

蜂須賀家政は、父で豊臣秀吉に仕えた蜂須賀正勝や、息子の蜂須賀至鎮に比べれば、武将として功績が微妙です。しかし、結果的に家政がいたことで、蜂須賀家は滞りなく存続することになります。

蜂須賀家政の肖像画

~基本情報~

  • 生存年:1558年~1639年 (81歳)
  • 最高官位従五位下 阿波守
  • :蜂須賀氏

< 総括 >

豊臣家の宿老だった父の正勝、優秀だが早死にした息子の至鎮に比べ、大きな活躍はそれほど残っていない。しかし、蜂須賀家が上手く立ち回れるように陰から支えた部分は評価に値する。家政がいなければ、御家が回らなくなることがあったと思われる。

豊臣秀吉の家臣

蜂須賀家政が誕生した場所を示す図

蜂須賀家政は、尾張丹羽郡の宮後城で、蜂須賀正勝の嫡男として誕生しました。父正勝が、織田信長に仕えていた豊臣秀吉に従い、家政もこれに従いました。

中国攻めの際には、豊臣秀吉の黄母衣衆として活躍するとともに、父正勝とともに長水城を攻略しました。この功によって、家政には月毛の名馬が送られます。

豊臣秀吉山崎の戦いにて、明智光秀を滅ぼします。その結果、織田家を超える権力を手中に収めます。この状況を問題視した柴田勝家が挙兵し、賤ヶ岳の戦いが起きました。家政はここで活躍し、播磨佐用郡(兵庫県)にて3000石の領地が与えられました。

蜂須賀家の裁量を任される

蜂須賀家の状況について注目してみましょう。父の正勝は豊臣秀吉の側近として活躍していたため、中国攻めの功で与えられた龍野(兵庫県)5万3000石の采配は、家政が執っていました。一方で賤ヶ岳の戦いに前後して、蜂須賀家の家督も家政が相続し、名実ともに、蜂須賀家の裁量は家政に任されました。

父が拒絶した阿波の太守

賤ヶ岳の戦い以降、豊臣秀吉は天下統一に向けた戦いを繰り広げます。家政も父の正勝ともに、紀州征伐、四国征伐などに従軍し、手柄を立てました。

豊臣秀吉は、四国征伐における父、正勝の活躍により、父の正勝に阿波(徳島県)17万5000石を与えようとします。しかし、父の正勝は豊臣家の宿老として仕えることを望み、これを拒否してしまいました。そこで、豊臣秀吉は、家政に阿波を与えました。

蜂須賀家政に与えられた所領と居城を示す図
その結果、家政の所領は3000石から17万5000石まで一気に上昇しました。(周りからは、親の七光りと馬鹿にされなかったのでしょうか。)また、翌年には従五位下、阿波守に任じられ、名実ともに阿波の大守となります。また、豊臣秀吉の命により、居城として徳島城を新たに築城しました。

朝鮮出兵で謹慎処分

家政は、文禄の役(第一次朝鮮出兵)、慶長の役(第二次朝鮮出兵)ともに7200人の兵を率いて朝鮮半島に渡り戦いました。文禄の役では、五番隊の主力でした。

一方で、慶長の役では謹慎処分を食らってしまいます。経緯を説明します。

慶長の役で、日本軍は朝鮮半島南部に城を築き、その地を守ることを一つの目標としていました。日本軍は順調に城を築いていきますが、完成間近の蔚山倭城が明・朝鮮軍5万7000に包囲されました。籠城した日本軍は、援軍が到着するまでの間10日間、懸命に城を守りました。

そして、援軍が到着すると明・朝鮮軍は撤退を開始します。しかし、明・朝鮮軍は、日本軍に追撃をかけられ、大打撃を受け敗走しました。家政はこの援軍に属していました。しかし、石田三成らの部下に、「家政らは援軍に赴いたにも関わらず、戦闘を行わなかった。」と豊臣秀吉に報告されます。

また、家政ら13将は蔚山倭城の攻防戦を受けて、戦線の縮小を訴えたことで、豊臣秀吉の怒りを買いました。特に、家政には石田三成の部下による報告と、戦線の縮小案の提言を行ったことにより、帰国を命じられ自身の所領阿波での謹慎処分が下りました。

石田三成襲撃事件に関与?

朝鮮出兵の最中、豊臣秀吉が亡くなると朝鮮半島に派遣された日本軍は帰国します。国内に目を向けると、徳川家康が横暴な振る舞いを始めます。徳川家康は、豊臣秀吉が生前に決めた、取り決めを堂々と破る行動に出ました。そして、大老や奉行など、これに抗議する者が現れます。家政は徳川家康派として行動するようになります。

このような中、大阪城下の石田三成の屋敷が、七将によって襲撃されました。石田三成は、徳川家康の振る舞いに抗議する武将の一人でした。資料によっては、この七将の中に家政が含まれることがあります。この事件の責任を取る形で、石田三成は謹慎処分となりました。

この事件の後、徳川家康は、先の朝鮮出兵での、蔚山倭城の戦いに派遣された援軍の中の、家政らの行動に失態はなかったという判断を下しました。これにより、家政らの名誉は回復されます。

家政は徳川家康にさらに接近し、息子、蜂須賀至鎮徳川家康の養女と結婚しました。この婚姻は、大名同士の独断による私的縁組を禁じた取り決めに反するものです。

関ヶ原の戦い

その後、会津征伐と続く、関ヶ原の戦いでは、家政は大阪城下に残り、息子の至鎮が蜂須賀家の代表として参陣しました。家政が参陣しなかった理由は、病気であったからとされています。しかし、病気は表向きの理由で、徳川家康派として敢えて大阪城下に残ったという説もあります。(西軍に関する情報をひそかに届けたり、西軍に属した諸将を調略したりするつもりだったのでしょうか。)

大阪城下に残ろうとした家政ですが、毛利輝元大阪城に入ると、高野山で出家の上、謹慎を命じられました。家政の領地、阿波にも毛利家の軍勢が入り、阿波の蜂須賀家の軍勢は西軍の指揮下に入りました。そして、2000人の兵が阿波から北国口の防衛のために派遣されました。

結局、関ヶ原の戦いは、東軍(徳川家康方)の勝利に終わり、息子の至鎮が東軍として参陣したことから所領は安堵されました。家政はこれを機に、家督を息子の至鎮に譲りました。

嫡孫の後見人

江戸時代に勃発した大阪の陣でも、家政は徳川方につき豊臣方から送られてきた密書を、徳川家康に差し出しました。

しかし、大阪の陣後、蜂須賀家は不幸に見舞われます。家督を譲られた息子の至鎮が若くして病死してしまいます。幸いにも息子の至鎮には既に、息子がいため蜂須賀家は御取り潰しを免れます。ただし、この時点で家政の孫にあたる蜂須賀忠英は幼く、とても統治などできません。減封処分を食らってもおかしくない状況です。

ここで、白羽の矢がたったのが家政です。家政は、孫の忠英が成人するまでの9年間後見人として領内の政務を取り仕切りました。家政が存命であったため、領地を全く没収されることなく、蜂須賀家が存続できたのです。

戦国好き徳川家光のお伽衆

成人した孫の忠英に、無事跡を継がせることに成功した後、家政は戦国時代のお話が大好きな徳川家光の御伽衆(側に仕えて自分の経験談を話して聞かせる)となりました。そして、1639年に81歳で亡くなりました。