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藤堂高虎の簡単解説:web武将名鑑

藤堂高虎は、その人生において幾度となく主君を変えました。そのため、裏切り者のイメージのある武将です。一方で築城の名人としても知られています。ここでは、藤堂高虎の生涯について、仕えた主君とともに紹介しています。

藤堂高虎の肖像画

~基本情報~

  • 生存年:1556年~1630年 (74歳)
  • 最高官位従四位下 左近衛権少将
  • :藤堂氏

< 総括 >

機を見るのに敏でその時々で伸びる人物を見つけるのに長けた。しかし、仕えた主君の下で活躍したの本人の能力によるものが大きく、強い武将というだけでなく築城、諜報活動、調略、水軍の指揮など多才であった。

近江で誕生し浅井家に仕える

藤堂高虎は、1556年近江犬上郡藤堂村(滋賀県)で、藤堂虎高の次男として生まれました。父の名前を上下ひっくり返した適当な名前の付け方に思えますが、そこは置いておきましょう。藤堂氏は、地元の小さな領主でしたが、父虎高の時代には落ちぶれて農民に近い状態でした。当時、藤堂氏が凋落していたため、若い頃の高虎の動向に関しては、基本的に真偽が定かでありません。

浅井長政

高虎は姉川の戦いに、浅井長政足軽として参戦し敵を討ち取り、浅井長政より感状が与えられました。

阿閉貞征

その後、小谷城の戦いで、浅井長政織田信長に滅ぼされると、高虎は浅井家の家臣だった阿閉貞征の家臣となりました。しかし、すぐに阿閉貞征の下を去ります。

③磯野員昌

その後は、同じく浅井家家臣の磯野員昌に仕えましたが、ほどなくしてここも去ります。

成長著しい織田家

④織田信澄

次に、織田信長の甥にあたる織田信澄に仕えました。しかし、ここもすぐに去ってしまいます。阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄の3人の下では出世できないと思ったのでしょう。

織田家中で頭角を現した豊臣家へ

豊臣秀長

浅井長政を滅ぼした織田信長は、長浜城豊臣秀吉に与えました。豊臣秀吉長浜城主となって3年後、高虎は豊臣秀吉の弟、豊臣秀長に300石で仕えます。高虎は、豊臣秀長が亡くなるまで仕え、最終的に紀伊粉河(和歌山県)2万石を与えられました。

高虎が豊臣秀長に仕えていた際に著しく活躍したのは、賤ヶ岳の戦いです。賤ヶ岳の戦いは、織田信長死後権勢を高める豊臣秀吉と、織田家重臣柴田勝家の間で起きた戦いです。賤ヶ岳の戦いで、高虎は敵将の佐久間盛政を銃撃しました。この銃撃が、敵軍が敗走するきっかけとなったのです。

また、築城の名手高虎が初めて城を築いたのも、豊臣秀長に仕えていた時です。豊臣秀吉紀州征伐を行った後に、和歌山城、猿岡山城の普請を行いました。

⑥豊臣秀保

豊臣秀長が若くして亡くなると、高虎は養子の豊臣秀保に仕えました。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、豊臣秀保の代理で朝鮮半島に出兵しました。しかし、羽柴秀保も若くして亡くなります。

高野山で出家

豊臣秀保が亡くなると、高虎は誰にも仕えることなく、高野山(和歌山県)で出家してしまいます。この頃には、高虎が仕えたいという主君がいなかったのでしょうか。

豊臣秀吉に請われて還俗 

豊臣秀吉

高虎が出家したことを聞きつけた豊臣秀吉は、その才能を惜しみ、高虎に還俗して直臣になることを求めました。これに応じる形で高虎は還俗し、豊臣秀吉の家臣になり、伊予宇和島7万石が与えられました。

慶長の役(第二次朝鮮出兵)では、水軍を率いて朝鮮水軍と戦い、敵将元均を討ち取りました。そして、大改修を行い宇和島城を居城とします。 

天下人の本命徳川家に仕える

徳川家康

豊臣秀吉が亡くなると、高虎はすぐに徳川家康と懇意の仲になります。豊臣秀吉の死後、徳川家康は専横を始めて、他の大名と対立しました。そんな中、大阪城下の石田三成の屋敷が、七将によって襲撃される事件が起きました。この七将に、高虎が含まれていたという説があります。この事件の責任を取る形で、石田三成は謹慎させられました。

石田三成襲撃事件の翌年、関ヶ原の戦いが起きます。高虎は徳川方として参戦しました。関ヶ原の戦いの前に、脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保に調略を仕掛けて、関ヶ原の戦い本戦での内応に成功しました。そして、関ヶ原の戦いにおける実際の戦闘では、大谷吉継が率いる軍勢と戦いました。戦後、高虎には伊予今治に20万石が与えられ、後に、伊賀、伊勢、伊予などに22万石が与えられました。

大阪の両陣にも参陣し、大阪夏の陣では、八尾の戦いで長宗我部盛親と交戦し一族含め600人もの死傷者を出しました。その後、加増や転封などによって伊勢を中心に32万3000万石が与えられました。そして1630年、74歳で亡くなりました。