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蜂須賀至鎮:web武将名鑑

蜂須賀至鎮は、弱冠14歳にして関ヶ原の戦いに蜂須賀家の代表として参陣した武将です。至鎮は名前の通り、豊臣秀吉の家臣、蜂須賀正勝と血が繋がっていて、孫にあたります。ここでは、蜂須賀至鎮について見ていきましょう。

蜂須賀至鎮の肖像画

~基本情報~

  • 生存年:1586年~1620年 (34歳)
  • 最高官位従四位下 阿波守
  • :蜂須賀氏

< 総括 >

有能な指揮官であり、大坂の陣では偵察隊からの情報を基に作戦を立案し提言し成果を挙げた。領地の支配においても、善政をしき名君と言う誉が高いが若くして亡くなった。

九州征伐の年に誕生

蜂須賀至鎮は、蜂須賀家政の長男として1586年に誕生しました。1586年は、豊臣秀吉徳川家康を臣従させるとともに、九州征伐を行って島津家を服属させた年です。天下統一まで、関東の北条氏と奥州諸氏の服属を残すのみという状況でした。

その後、1590年に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げます。至鎮が4歳の時です。このまま、豊臣政権が安定していれば、至鎮が戦陣に立つことはなかったでしょう。

徳川家康の義婿

1599年豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康が動き始めます。徳川家康は、豊臣秀吉が生前に定めた取り決めを破ります。例えば、大名は無断で婚姻を決めることができませんでしたが、徳川家康は次々と縁組を行いました。1600年、14歳になっていた至鎮も、徳川家康の養女と結婚しました。

父の代理で東軍へ

至鎮が結婚した同年、徳川家康上杉景勝に謀反の嫌疑をかけて、会津征伐のため江戸に戻り自らも兵を率いて諸大名とともに出陣します。至鎮は病気で伏せていた父家政の代わりに兵を率いて参陣しました。

至重の参陣については、父家政に命じられたからとも、病気を理由に腰を上げようとしない父家政の反対を押し切って行われたとも言われています。

蜂須賀至鎮が父から継いだ所領を示す図

その後、関ヶ原の戦いでも、至鎮は東軍に属し戦いました。戦後には所領が安堵され、出家した父から蜂須賀家の家督を譲られます。阿波(徳島県)17万5000石を支配する大名となりました。

大阪の陣で才覚発揮

至鎮は関ヶ原の戦いに参陣した時は14歳でした。そのため、関ヶ原の戦いでの至鎮の活躍を以て評価するのは困難です。至鎮が武将としての能力を発揮するのは、大阪冬の陣です。

豊臣方は、大阪城から海につながる要衝である木津川口に砦を築いて、守っていました。徳川方として戦っていた至鎮は、偵察を派遣して木津川口砦がの防備が甘いという知らせを受けます。

そして、これを徳川家康に進言し、翌日浅野長晟、池田忠雄らとともに攻撃を許されました。しかし、至鎮は抜け駆けして、単独で砦を攻め取りました。

蜂須賀至鎮の所領を示す図

その後に行われた博労淵の戦いでも、至鎮は活躍しました。戦後、淡路(兵庫県)岩屋を除く、7万石が加増され、25万7000石の所領を有することになります。

大坂夏の陣では、海が荒れたたため遅刻をしてしまいますが、御咎めはありませんでした。

至鎮は病弱であったため、34歳の若さで亡くなりました。内政面にも優れ塩田の開発や、非常時の食料の確保も行いました。