加藤嘉明の簡単解説:web武将名鑑
加藤嘉明は豊臣秀吉の子飼いの武将です。豊臣秀吉の存命時は、豊臣水軍の将として活躍しました。ここでは、加藤嘉明の生涯で注目すべきことを紹介しています。
~基本情報~
- 生存年:1563年~1631年 (68歳)
- 最高官位:従四位下 侍従
- 姓:加藤氏
< 総括 >
豊臣秀吉の子飼いの武将で、水軍を率いる家系に生まれたわではないが、豊臣水軍の将として指揮を託された。関ヶ原の戦いでは、東軍として戦い伊予松山城の城主となり、後に会津若松を治めることになった。
徳川家の下を去る
加藤嘉明は、加藤教明の長男として、幡豆郡永良郷(愛知県)で誕生しました。父教明は、徳川家康に仕えていましたが、三河一向一揆で徳川家康に背き一揆方につき敗北したため、放浪の身となりました。
豊臣秀吉に仕える
各地を放浪した後、父教明は豊臣秀吉に仕えました。一方、嘉明は馬の行商を手伝っていましたが、加藤影泰にその資質を見出されて、豊臣秀吉に仕えました。
明智光秀を敗死させたことで権勢を高めた豊臣秀吉が、織田家宿老の柴田勝家と争った賤ヶ岳の戦いで活躍したことを評されて、賤ヶ岳の七本槍の一人に選ばれます。賤ヶ岳の戦いでの活躍により3000石の知行を与えられました。
豊臣水軍の将
豊臣秀吉は天下統一に向けて、各地への出兵を順に行います。その一環で行われた四国征伐で嘉明は手柄を立て、淡路で1万5000石を与えられ、志知城主(兵庫県)になりました。、これより後、淡路に領地を与えられたことで、豊臣水軍の将の一人として淡路水軍を率いて戦いに参加することが多くなります。
嘉明が水軍を率いて参加した戦いは以下です。
海路から豊臣軍の川内川(鹿児島県)の渡航を支援しました。
海路から下田城を囲み包囲攻略を支援しました。
豊臣水軍の大将、九鬼嘉隆に次ぐ副将として、淡路水軍を率いて戦いました。特に、李舜臣が指揮する朝鮮水軍と何度も戦い撃退に成功し、豊臣秀吉から感状が送られています。そして、文禄の役の功により、伊予正木(愛媛県)6万石が与えらました。
漆川梁海戦で、元均率いる朝鮮水軍と戦い勝利しましたが、藤堂高虎の活躍には及びませんでした。
関ヶ原は東軍
慶長の役の途中で豊臣秀吉が亡くなると、嘉明ら朝鮮半島に派遣された将兵は帰国しました。一方で、徳川家康は豊臣秀吉が戦前に決めた取り決めを破り、専横を始めました。
石田三成襲撃事件
さらに不穏な空気は続き、豊臣秀吉が死去した翌年に、大阪城下の石田三成の屋敷が七将によって襲撃されました。嘉明は七将の中の一人だと言われていますが、資料によっては嘉明の代わりに別の武将が記載されていることもあります。結局、石田三成は無事でしたが、この事件の責任を取る形で、謹慎させられました。
このような中、徳川家康の専横は酷くなり、我慢ならなくなった関ヶ原の戦いで西軍と呼ばれる諸将が、徳川家康に対して挙兵しました。そして、関ヶ原の戦いを迎えます。
加藤嘉明は、徳川方として関ヶ原の戦いに臨みました。前哨戦の岐阜城攻めで活躍するとともに、関ヶ原の戦い本戦では、石田三成が率いる軍勢と戦いました。一方、嘉明の領地伊予正木に、毛利家家臣や浪人ら2500が侵攻してきましたが、佃十成らの活躍により、これを避けることに成功しました。
戦後、嘉明の活躍が認められ、10万石の加増を受け、伊予正木20万石に封じられます。さらに、加増にともなって、居城を正木城から、新たに築城した松山城に移しました。
その後と晩年
徳川家康は関ヶ原の戦いの後に、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。そして、すぐに将軍職を息子の徳川秀忠に譲ります。
嘉明は徳川秀忠に従い、大阪夏の陣に参戦しました。蒲生忠郷の死後、御家騒動が起きた蒲生家が伊予松山に減封されるのと入れ替わりで、会津43万5500石を任されました。そして、その4年後の1631年に江戸で病死しました。68歳でした。