徳川家康の簡単解説:web武将名鑑
徳川家康は、広く世に知られた人物です。ここでは、徳川家康が歩んだ生涯について簡単に解説します。
~基本情報~
< 総括 >
約13年間の人質生活
徳川家康は、愛知県(三河)の岡崎城で、松平広忠の嫡男として誕生しました。「徳川」は改名後の姓であり、本来の姓は「松平」です。当時の松平氏は、西の織田氏、東の今川氏という巨大勢力に挟まれいていました。そのため、家康は、臣従の証として人質生活を過ごします。
織田家の人質 2年間
まずは、織田家の人質となります。今川家の人質として、護送されていたところ、戸田康光が裏切って、織田家に送られたとも、岡崎城が織田家に攻略されたために、恭順の証として、織田家の人質となったとも言われています。
今川家の人質 11年間
織田家の人質となってから2年後、今川家が捕らえた織田信広(信長の庶兄)との人質交換により、今川家の人質として、駿府に送られます。そして、今川家の下で元服し、「松平元康」と名乗ります。
織田信長と同盟を結ぶ
織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで討つと、徳川家康は今川家から独立し、三河の統一を行いました。そして三河統一の途中で、織田信長と清州同盟を結びます。
メリット
この同盟によって、背後を気にせずに、三河の統一、今川領の遠江の併合を行うことができました。そして居城も岡崎城から、浜松城に移しました。
デメリット
織田信長が行った大規模な戦いに駆り出されるとともに、対武田の盾の役割を任されることになりました。
徳川家康が参戦した戦い
人生最大の負け戦
徳川家康が惨敗した戦いが、三方ケ原の戦いです。
家康が遠江を支配下に治めた後、戦国最強と謳われる武田信玄が西上を開始します。武田信玄は、徳川家康が支配下に治めた遠江に攻め入ってきました。
三方ケ原の戦い
武田信玄は、わざと家康が籠る浜松城の目と鼻の先を素通りします。この行軍を浜松城から見ていた家康主従は、侮辱と捉え出撃します。しかし、これは武田信玄の作戦通りで、浜松城より先の三方ケ原で徳川軍を待ち伏せし、完膚なきまでに打ち破りました。惨敗した家康は、ほうほうの体で、居城の浜松城に戻りました。
しかし、西上の途中で、武田信玄は病気で亡くなりました。織田信長とともに、家康は九死に一生を得たのです。
旧武田領の併合
1582年、本能寺の変が起き、織田信長が亡くなりました。このとき、家康は京都にいましたが、有名な伊賀越えを成し遂げ、三河までたどり着きました。
話は遡りますが、織田信長は本能寺の変の少し前に、武田家を滅ぼしていました。そして、家臣を派遣して、甲斐(山梨県)信濃(長野県)の統治を行っていました。
しかし、織田信長が亡くなると、旧武田領(甲斐、信濃)では一揆が起きたり、隣国の北条家や上杉家に狙われたりして、織田家の家臣の中には討ち取られるものや、逃げ帰るものが続出します。武田家を滅ぼして、3ヶ月しか経ていないので、仕方ありません。
家康は、甲斐と信濃に配下の武田家遺臣を派遣するとももに、自らも甲斐に乗り込んで、地元の武田家遺臣の掌握を図りました。信濃の支配にはてこずりましたが、北条家、上杉家との三つ巴の争いを乗り越え旧武田領の大部分を獲得できました。
旧武田領を支配下置く効果
旧武田領を支配下に置いたことで、武田遺臣を家臣に加えることができました。武田遺臣は戦国最強と言われた猛者ばかりです。武田遺臣を、自陣営に迎え入れたことで、徳川家の軍事力が大きく増強されました。
豊臣秀吉への敵対と臣従
甲斐と信濃を手に入れた、家康に、強敵が立ちはだかります。豊臣秀吉です。豊臣秀吉は、山崎の戦いで織田信長の仇、明智光秀を敗死させたことで、影響力を拡大していました。
家康は、織田信長の次男である織田信雄と手を組み、豊臣秀吉と争いました。小牧長久手の戦いです。
この戦いで、豊臣秀吉が派遣した部隊を、家康は撃破しました。しかし、その後戦線は膠着してしまい、講和することになりました。そして、大阪城に出向き臣従の意を示します。ただし、この争いで、「唯一豊臣秀吉に戦いで勝った人物」という印象を対外的に植え付けることに成功しました。
その後、豊臣秀吉が関東の大大名北条氏を滅ぼすと、家康は旧北条氏の領地に国替えを命じられます。本拠地を江戸に定めました。
天下取りとその後
豊臣秀吉が死ぬと、家康は徐々に専横を始めます。そして、関ヶ原の戦いで勝利し、翌年には、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きました。
その後1605年には、息子の徳川秀忠に将軍職を譲り、征夷大将軍職を世襲制にすることを示します。つまり、徳川家将軍家が頂点に君臨する政権が、自分の死後も続くことを世に示したのです。
家康は将軍職辞任後は、駿府城に移り、大御所として政治を行いました。最晩年に、後顧の憂いをなくすため、大阪の陣にて、豊臣家を滅ぼしました。そして、豊臣家を滅ぼした翌年、この世を去りました。