内府ちがひの条々の意義とは?
「内府ちがひの条々」が出されたことをもって、関ヶ原の戦いにおける、西軍が挙兵したとされています。ここでは、内府ちがひの条々について紹介しています。
何?
「内府」とは「内大臣」の唐名で、当時内大臣の地位にいた、徳川家康のことを示しています。そして、「ちがひ」は「違い」のことで、約束を違えることを意味しています。
つまり、「内府ちがひの条々」は、西軍の代表が、豊臣秀吉が生前に定めた取り決めを守らない、徳川家康への批判を書いた書状です。十三ヶ条からなっています。この書状が、全国の大名に届けられました。 内府ちがひの条々が送付されたことをもって、西軍が挙兵したとされています。
意義は?
1600年6月:会津征伐の号令
1600年7月:内府ちがひの条々送付
1600年7月:会津征伐中止
1600年8月:徳川家康が江戸に戻る
1600年9月:徳川家康が江戸から出陣
1600年9月15日:関ヶ原の戦い
豊臣秀吉の死後、専横を行う徳川家康と、上杉景勝の関係が悪化します。徳川家康は、上杉景勝に上洛を要請しますが、これを上杉景勝は拒否します。すると、徳川家康は上杉景勝が「豊臣家に対して謀反の疑いがある」という名分の下、諸大名に会津征伐(上杉征伐)の号令を出しました。
それに対し、後の西軍の代表は、内府ちがひの条々を作成し全国の諸大名に、送付しました。内府ちがひの条々の意義は、「上杉景勝に落ち度はなく、会津征伐は徳川家康の独断である。」と弾劾したことです。
これにより、徳川家康は、会津征伐の名分を失いました。そして、江戸城に戻るという判断を余儀なくされました。大義名分を失った徳川家康は、江戸で1ヶ月身動きが取れなくなります。名分がなくなった以上、周囲の会津征伐に向かった武将が、いつ西軍側についてもおかしくないからです。
内府ちがひの条々によって、 徳川家康は会津征伐の中止と、江戸に留まざるを得ない状況を作り出したのです。
誰が書いた?
内府のちかひの条々を書いたのは、豊臣政権で奉行を務めた、前田玄以、増田長盛、長束正家と、大老を務めた、毛利輝元、宇喜多秀家の5人です。
関ヶ原の戦いで、西軍の挙兵は石田三成が主導的に行ったと思われている方が、多いと思います。歴史の授業でもこう習います。そのため、挙兵を示す、内府ちかひの条々も石田三成が書いたと思ってしまいます。
しかし、実情は違ったようです。まず、石田三成は西軍が挙兵した際は、居城の佐和山城(滋賀県)で謹慎させられていました。これは、大阪城の石田三成の屋敷を、七人の武将が襲撃した事件の責任を取らされたからです。謹慎中の石田三成が、挙兵にどのように関わったのか現在はわかっていません。