クロサイの特徴:web動物図鑑
ここでは、クロサイの特徴を紹介しています。
食事
クロサイは草食動物です。食べる物は以下です。
- 木の葉
- 樹皮
- マメ科の低木
- 果実
- アカシア
草を食べることはほとんどありませんが、乾季には草を食べることがあります。また、水は最長で5日間飲まなくても問題ありません。
クロサイは他の草食動物と同様に、薄暗い早朝や夕方に食事を行います。日中は、木陰などで休んでいます。
口の形とシロサイとの違い
クロサイの口は、シロサイの口に比べて細く尖っています。この口の形は、木の葉などを摘み取って食べることに適しています。
「クロサイ」という名前の由来について説明します。クロサイは決して色がシロサイに比べて黒いわけではありませんが、先に名前を付けられたシロサイの「シロ」に対応させるために、「クロ」という名前が与えられました。
シロサイの、気の毒な名前の付けられ方に関しては以下を参考にしてください。
分布
クロサイは、アフリカ大陸に生息する動物です。以下の国に生息しています。
一度絶滅したものの、他の地域からクロサイを再導入した地域もあります。
クロサイが好む生息地は藪の生い茂っている場所や、低木が多く生えている場所です。また、山地の森林地帯や、あまり好まないものの草原などでも生活できます。
生活単位
クロサイは基本的に、単独で生活しています。しかし、若い個体や、未成熟な個体は、同性の年長の個体と、結びつきの強くない関係を持っています。
また、縄張り意識もそれほど強くはなく、お互いに縄張りが被ることもよくあります。縄張りの大きさは、食べ物の量と関係しています。食べ物が豊富であればあるほど、縄張りは小さいです。これは、食べ物が豊富であれば縄張りが狭くても、生きていくのに十分な他獲物を確保できるからです。
気性が荒い
他のサイと同様にクロサイの聴覚、嗅覚は優れていますが、視覚は優れていません。30 m離れたものは見えていないと言われています。さらに、クロサイは気性が荒く、何か確認もせずに攻撃に移ることもあります。臆病なシロサイとは大違いです。クロサイの走る速度は、時速50 km/hにもなり、突進を受ければ、ひとたまりもないでしょう。
クロサイ同士の争いは命がけ
また、クロサイ同士の争いも激しいです。クロサイの死因のうちクロサイ同士の戦いで負った傷が原因である確率は、オスの場合50%、メスの場合30%にもなるそうです。同種同士での争いの傷が原因で死ぬ確率は、クロサイが最も高いと言われています。
この確率をあげている原因には、クロサイにほとんど天敵がいないという事実も関係しています。他の草食動物の場合、肉食動物に捕食され死ぬ確率が高いです。一方、肉食動物の場合は、十分な食べ物にありつけず、幼くして死ぬ場合が多いです。
それに対して、クロサイが上記のような理由で死ぬことがほとんどないので、その分同種同士での争で負った傷が原因で死ぬ確率が高まると考えられます。
一言
クロサイはシロサイほど絶滅は心配されていませんが、絶滅の危機を乗り越えたわけではありません。引き続き保護が必要とされています。
関ヶ原の戦いにおける布陣の順番
関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が当日一斉に軍を揃えて戦ったわけではありません。ここでは、関ヶ原の戦いまでに両陣営の布陣ができあがるまでの流れを、時系列に従って紹介したいと思います。
大谷吉継ら布陣
9月3日(関ヶ原の戦いの12日前)
大谷吉継らは、西軍として北陸方面の平定を担当していました。しかし、当初の予定とずれが生じ、美濃(岐阜県)で東軍を迎え撃たなければならなくなると、美濃方面の援軍を要請されます。そして、9月3日頃には、関ヶ原に布陣します。
南宮山に中国・四国勢布陣
9月8日頃(関ヶ原の戦いの約1週間前)
大谷吉継らに続いて布陣するのは、西軍の中国・四国地方を本拠地とする勢力です。中国・四国勢は、南宮山に布陣しました。
大谷吉継らもですが、中国・四国勢は大垣城(岐阜県)に籠る石田三成の後詰のつもりで、関ヶ原や南宮山に陣を敷いたと思われます。
石田三成が大垣城を退去して関ヶ原へ
9月14日(関ヶ原の戦いの1日前)
石田三成らは、9月14日の夜に夜陰に乗じることで大垣城を脱出し関ヶ原に移動しました。大垣城を退去した理由は、大軍で小城に籠城するよりも、大谷吉継や中国・四国勢と合流し野戦を挑んだ方がよいと考えたからです。詳しくは以下を参考にして下さい。
小早川秀秋が松尾山に布陣
9月14日(関ヶ原の戦いの1日前)
西軍は松尾山に名前の通りですが、松尾山城という城を築きました。これは、元々あった城を修復したものです。
西軍は本来ならば、この城に中国地方の軍、つまり毛利軍に入ってもらう予定でした。そのため、毛利軍が入城するまでの間、伊藤盛正という名の武将が代理で城主を務めていました。しかし、小早川秀秋がやってきて、伊藤盛正を追い出し乗っ取ってしまいます。
実は、小早川秀秋は少し前から、不審な行動を取っていたため、西軍に疑惑を抱かれていました。そこで、小早川秀秋は身の危険を感じて、逃げ込む形で松尾山城に入ったのでした。
西軍は、小早川秀秋に松尾山城に入られたことが、翌日起こる戦いの決定打になるとは、思わなかったでしょう。
東軍が関ヶ原へ
9月15日(関ヶ原の戦い当日)
東軍は9月15日の未明には関ヶ原に移動しました。この決定を下す前、徳川家康は石田三成らが大垣城を退去し、関ヶ原で野戦を挑もうとしていることを知り喜びました。
なぜなら、9月15日に黒田長政から、松尾山に陣を敷く小早川秀秋が西軍を裏切り、東軍に味方する旨を伝えてきたからです。このように、上両陣営がそれぞれ思惑を抱きつつ成り行き上、関ヶ原で決戦することになったと考えられます。
なぜ関ヶ原の地で東軍と西軍が激突した?
豊臣秀吉の死後、関ヶ原で東軍と西軍が激突しました。結果として徳川家康が率いる東軍が勝つのですが、なぜ東軍と西軍が戦った場所が関ヶ原なのでしょうか。
東軍と西軍がお互いに示し合わせて、「関ヶ原で白黒つけましょう。」と言って戦ったわけでは、ありません。成り行き上、関ヶ原で戦うことになったのです。
西軍は尾張・三河で東軍を迎え撃つ作戦
西軍は、東軍を尾張から三河のどこか(愛知県のどこか)で迎え撃つ作戦を立てました。西軍は東軍が西上してきた場合、大阪から毛利輝元出陣し、尾張もしくは三河で決戦を行う予定でした。
また、清州城(愛知県)の福島正則の説得を試みて、西軍に寝返らなければ、美濃方面に進行した軍と、伊勢方面に進行した軍で清州城を攻撃し、尾張を平定する予定だったようです。美濃方面を担った軍の中心が石田三成でした。
西軍に誤算
美濃方面を進んだ石田三成を中心とする西軍は、8月には美濃の大垣城(岐阜県)に到着しました。しかし、大きな誤算もありました。
東軍の西上が早かったこと、毛利輝元が大阪から出陣してこなかったことで、尾張・三河で、東軍に決戦を挑むことができませんでした。さらに、岐阜城を東軍に奪われたことで、尾張方面に進出するための、重要な軍事拠点を失いました。
美濃での対峙
西軍は伊勢(三重県)方面に進出していた軍や、北陸方面に進出していた軍の一部が、美濃方面軍に合流し、徳川家康も美濃に到着しました。
結果として、9月12日時点(関ヶ原の3日前)には、以下のように美濃で両軍が対峙します。
西軍が大垣城退去
石田三成らは、9月14日(関ヶ原の戦いの前日)の夜に大垣城を退去します。そして、決戦の地、関ヶ原へと向かいます。大垣城に退去した理由はいくつか考えられます。
石田三成が大垣城を退去した理由は、大軍が籠るには小さ過ぎたからです。大垣城に籠ったのは、石田三成、宇喜多秀家、小西行長らで、西軍の主力の大部分です。さらに、補給面の問題もあったはずです。籠城し敵に包囲されると、食糧や矢玉を城外から搬入することはできません。特に小城に大軍が籠ると、食糧は瞬く間に尽きてしまいます。
また、赤坂に東軍が集結しているため、大垣城に籠っていては関ヶ原に布陣している大谷吉継や、中国・四国軍と分断出された形になってしまいます。そのため、合流した方が有利だと考えたのでしょう。
そして、石田三成らも野戦に勝機を見出していたのでしょう。関ヶ原で東軍を迎え撃っている隙に、南宮山から中国・四国軍が背後から東軍を攻撃することで、東軍を前後から挟み撃ちできます。
東軍も関ヶ原に移動
西軍が大垣城を退去して、関ヶ原に向かったという情報は、東軍にも届きました。黒田長政から、松尾山に陣取った小早川秀秋の裏切りの旨を聞いた徳川家康は、これを喜び関ヶ原に移動することを決めました。東軍は9月15日早朝には、関ヶ原に到着し布陣しました。
その後、東西両陣営が激戦を繰り広げる関ヶ原の戦いが始まります。松尾山の小早川秀秋は、黒田長政に伝えたように、西軍を裏切りこれが決定打となって東軍が勝利しました。
小早川秀秋の簡単解説:web武将名鑑
小早川秀秋は、関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったというイメージが強いです。ここでは、小早川秀秋の人生を6つのターニングポイントに分けて紹介します。
豊臣秀吉の養子に
小早川秀秋は、豊臣秀吉の妻おねの兄、木下家定の五男として、長浜(滋賀県)で生まれました。豊臣秀吉は、義理の叔父にあたります。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田信長により、近江(滋賀県)長浜城を与えられたため、父親の木下家定はその家来となり長浜にいました。そのため、秀秋の誕生地は長浜です。
秀秋は、幼くして子どものいなかった羽柴秀吉の養子となり、おねの下で育てらました。
豊臣秀吉の後継者No.2
話は前後しますが、秀秋の誕生した年に織田信長が亡くなりました。織田信長の死後、中央で権力を握った豊臣秀吉によって、丹波の亀山城(京都府)10万石が、秀秋に与えられました。さらに、豊臣の姓を下賜され、豊臣秀次に次ぐ、豊臣秀吉の後継者No.2になります。
ここまで、豊臣秀吉の親族(血は繋がっていない)というだけで、順調に出世してきました。
追い出され小早川家の養子へ
天下統一後に、豊臣秀吉に待望の実子が産れます。後の、豊臣秀頼です。こうなると、豊臣秀吉は実の子に後を継がせたくなります。すると、秀秋らの養子が邪魔になります。
豊臣秀吉は、秀秋を中国の大大名で、子供のいなかった毛利輝元に養子にするよう打診します。これを聞いた、毛利家の家臣小早川隆景は、主家である毛利家を守るために、自分の養子に迎えたいと豊臣秀吉に伝え認められました。1594年には正式に、秀秋は小早川隆景の養子となりました。
一方で、もう一人の後継者No.1だった養子の豊臣秀次は謀反の疑いがあるとして、切腹させられました。秀秋は秀次事件に連座して、所領の亀山城を没収されます。しかし、小早川隆景が隠居したことから、その所領を受け継ぎ、筑前名島城(福岡県)30万7000石の領主となりました。
10万石から、30万7000石に所領が増えて良かったように見えますが、京都の都近くから遠く離れた福岡に飛ばされたと考えると、どうなのでしょうか。
転封と復帰
第二次朝鮮出兵で、秀秋は総大将として軍を率いて朝鮮半島に渡り釜山に在状しました。しかし、渡航したその年の内に、豊臣秀吉から帰国命令が下り、翌年の1月には帰国しました。
帰国直後、秀秋には越前北ノ庄15万石への転封を命じられました。しかし、豊臣秀吉が死去すると、その遺命により五大老の連署の下、筑前・筑後59万石が与えられました。
関ヶ原の戦い
1600年、内府のちかひの条々を出し、西軍が徳川家康を討つために挙兵しました。挙兵した西軍は、徳川家康が畿内で拠点に使っていた伏見城を攻撃します。伏見城には留守居役として、鳥居元忠が籠り激しく抵抗しますが、西軍が伏見城を落としました。秀秋は、伏見城の攻防戦に西軍として参加しました。
しかし、関ヶ原の戦いの前までには、東軍の将である黒田長政の調略により、西軍を裏切り東軍につくことを決めていたようです。(本心はわかりません。迷っていたのかもしれません。) いずれにせよ、関ヶ原の戦いでは、西軍を裏切って、松尾山を下り、激戦を繰り広げている西軍の横腹を突く形で西軍に攻めかかりました。
一方で、西軍は秀秋の裏切切りに気づいていたようです。実際に、西軍の大谷吉継らは、松尾山下ったところで、秀秋の裏切りにも対応できる陣の張り方をしていました。しかし、実際の戦いでは、秀秋軍の攻撃を防げず、大谷吉継の軍は総崩れし、隣の宇喜多秀家や小西行長の軍も、小早川秀秋の攻撃で崩れ西軍は敗北しました。
その後
酒に溺れた乱れ早死に
1600年:岡山55万石に移封(18歳)
1602年:急死、小早川家断絶
秀秋は関ヶ原の戦い後の、論功賞で宇喜多秀家の旧領、岡山55万石が与えられました。そして、家臣団の整備等を行っていましたが、2年後に急死します。酒に溺れた結果による内臓の病気だったそうです。
また、秀秋には後継ぎがいなかったため、小早川家はお家断絶となりました。
内府ちがひの条々の意義とは?
「内府ちがひの条々」が出されたことをもって、関ヶ原の戦いにおける、西軍が挙兵したとされています。ここでは、内府ちがひの条々について紹介しています。
何?
「内府」とは「内大臣」の唐名で、当時内大臣の地位にいた、徳川家康のことを示しています。そして、「ちがひ」は「違い」のことで、約束を違えることを意味しています。
つまり、「内府ちがひの条々」は、西軍の代表が、豊臣秀吉が生前に定めた取り決めを守らない、徳川家康への批判を書いた書状です。十三ヶ条からなっています。この書状が、全国の大名に届けられました。 内府ちがひの条々が送付されたことをもって、西軍が挙兵したとされています。
意義は?
1600年6月:会津征伐の号令
1600年7月:内府ちがひの条々送付
1600年7月:会津征伐中止
1600年8月:徳川家康が江戸に戻る
1600年9月:徳川家康が江戸から出陣
1600年9月15日:関ヶ原の戦い
豊臣秀吉の死後、専横を行う徳川家康と、上杉景勝の関係が悪化します。徳川家康は、上杉景勝に上洛を要請しますが、これを上杉景勝は拒否します。すると、徳川家康は上杉景勝が「豊臣家に対して謀反の疑いがある」という名分の下、諸大名に会津征伐(上杉征伐)の号令を出しました。
それに対し、後の西軍の代表は、内府ちがひの条々を作成し全国の諸大名に、送付しました。内府ちがひの条々の意義は、「上杉景勝に落ち度はなく、会津征伐は徳川家康の独断である。」と弾劾したことです。
これにより、徳川家康は、会津征伐の名分を失いました。そして、江戸城に戻るという判断を余儀なくされました。大義名分を失った徳川家康は、江戸で1ヶ月身動きが取れなくなります。名分がなくなった以上、周囲の会津征伐に向かった武将が、いつ西軍側についてもおかしくないからです。
内府ちがひの条々によって、 徳川家康は会津征伐の中止と、江戸に留まざるを得ない状況を作り出したのです。
誰が書いた?
内府のちかひの条々を書いたのは、豊臣政権で奉行を務めた、前田玄以、増田長盛、長束正家と、大老を務めた、毛利輝元、宇喜多秀家の5人です。
関ヶ原の戦いで、西軍の挙兵は石田三成が主導的に行ったと思われている方が、多いと思います。歴史の授業でもこう習います。そのため、挙兵を示す、内府ちかひの条々も石田三成が書いたと思ってしまいます。
しかし、実情は違ったようです。まず、石田三成は西軍が挙兵した際は、居城の佐和山城(滋賀県)で謹慎させられていました。これは、大阪城の石田三成の屋敷を、七人の武将が襲撃した事件の責任を取らされたからです。謹慎中の石田三成が、挙兵にどのように関わったのか現在はわかっていません。
シロサイの特徴:web動物図鑑
ここでは、シロサイの特徴について紹介しています。
食事
シロサイは、植物食を中心とした、草食動物です。また、昼行性の動物で、まだ薄暗い明け方や、夕方に食事を行います。日差しの強い日中は、木陰で休んだり、水場で水を飲んだりして過ごします。食べるのは以下です。
- 背の低い草
- 木の葉
基本的には、背の低い草を中心に食べます。木の葉を食べることは、ほとんどありません。
また、乾燥にも強く、水分補給は2日に1回です。さらに、乾季では4~5日に一回でも生きていくことができます。
口の形とクロサイとの違い
シロサイの口は、クロサイの口に比べて、幅が広いです。「シロサイ」の名前の由来は、口が広いという意味の「widje」を「white」に聞き間違えたのが原因です。体が白いとかいう理由ではありません。シロサイの幅広い口は、草をむしり取って食べることに適しています。
分布
シロサイは、アフリカ大陸の動物ですが、多くの地域で絶滅してしまいました。現在までに、かつて絶滅した以下の国に、再導入されました。
さらに、ザンビアに移入もされています。
シロサイが好むの、草原やサバンナです。
絶滅したのは一亜種
最近(2018年)、保護されていたキタシロサイの最後の1頭が死にました。これにより、キタシロサイは、絶滅してしまいました。ここで、注意すべきことがあります。
「シロサイ」は絶滅していません。絶滅したのは「キタシロサイ」というシロサイの一亜種です。シロサイの亜種は、以下の2種です。
「ミナミシロサイ」の方は、現在も生き残っています。そのため、シロサイは絶滅していないのです。そうは言いつつも安心はできません。密猟の対象とされおり、保護が必要な動物です。
生活単位
シロサイは、以下のような生活単位で暮らしています。
- メスの群れ(未成熟なオスも含まれる)
- 単独のオス
メスは、群れを作って生活しています。群れの大きさは、10~20頭ほどにもなることがあります。この群れには未成熟のオスが、含まれることもあります。
一方で、オスは単独で暮らしています。強いオスは、縄張りを持ち、排泄物を用いて縄張りを主張します。また、角を地面や、低木にこすりつけて、縄張りの目印にすることもあります。縄張りを示す目印は、約30 mに1つの割合で存在します。一方で、弱いオスは縄張りを主張することはありません。
繁殖期になると、オス同士が角を突き合わせて争いますが、それほど激しい争いにはなりません。
聴覚、嗅覚に優れる
シロサイは、他のサイと同様に嗅覚と聴覚は発達していますが、視力は弱いです。そのためか、シロサイは臆病で穏やかな動物です。しかし、一度怒らせると、突進してくるので注意が必要です。走る際の速度は時速50 km/hにもなります。
一言
シロサイが絶滅していなくて、少し安心しましたか?筆者は、キタシロサイが絶滅したことを、ニュースで知った際に、調べて安心しました。しかし、シロサイも含めサイ全体が絶滅を心配されている動物なので、全て問題が解決したわけではありません。
石田三成の簡単解説:web武将名鑑
石田三成は、関ヶ原の戦いで徳川家康に負けた人として、記憶されている方が多いと思います。ここでは、石田三成について詳しく解説しています。できるだけ図を多く用いるようにはしていますが、長いので興味ある部分だけ読んでいただいても構いません。
- 石田三成の誕生
- 政務担当者として登場
- 上杉家との外交担当者
- 柴田勝家との争い
- 治部少輔への任官
- 東国諸将との外交担当
- 堺奉行に就任
- 九州平定の戦後処理
- 忙しくなる東国対応
- 小田原征伐
- 奥羽仕置の実務
- 土地管理でも活躍
- 第一次朝鮮出兵
- 漢城在陣
- 朝鮮制圧の頓挫
- 島津家の後継者争いと伏見城修理
- 島津領・佐竹領の検地
- 佐和山城主
- 京都所司代就任
- 五奉行制の先駆け
- 第二次朝鮮出兵で不興
- 佐竹氏を全力で擁護
- 筑前・筑後へ代官派遣
- 豊臣秀吉の死
- 朝鮮出兵の後始末
- 毛利家の領土問題
- 前田利家の死
- 石田三成襲撃事件と隠居
- 加賀征伐
- 会津征伐
- 内府ちがひの条々
- 畿内平定と上杉景勝との連携
- 東軍の素早い西上
- 関ヶ原の戦い
- 最期
~基本情報~
- 生存年:1560年~1600年 (41歳)
- 最高官位:従五位下 治部少輔
- 姓:石田氏
< 総括 >
関ヶ原の戦いで負けてしまったことで評価が著しく低くなっている武将。頭脳明晰で政務に長けていたイメージにほぼ誤りはなく豊臣政権で要職をいくつも務めたが、悪人というイメージは間違い。
石田三成の誕生
石田三成は、近江(滋賀県)坂田郡の石田村で誕生したと言われています。父は石田正継で、兄に石田正澄がいました。幼名もしくは若い頃の名として佐吉が用いられています。
織田信長は、北近江の浅井長政に対抗するために豊臣秀吉(この時点では、木下藤吉郎)を派遣。そして、浅井長政を滅ぼした後には、旧浅井領の支配を豊臣秀吉に一任。石田正継は、上記のどこかの時点で、豊臣秀吉に臣従したと考えられます。
政務担当者として登場
石田三成が当時の史料に初めて登場するのは1583年、本能寺の変の翌年です。豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の家臣で、政務担当者としてその名が記載されています。ちなみに、この頃「三成」でなく、「三也」と名乗っていました。
豊臣秀吉は山崎の戦いで明智光秀に勝利し、織田家中で、大きな発言権を持っていました。しかし、あくまで当時の主君は織田氏です。
上杉家との外交担当者
山崎戦いの後、豊臣秀吉は美濃(岐阜県南部)の岐阜城主、織田信孝(織田信長の三男)、織田家家臣の柴田勝家と徐々に対立。柴田勝家は越前(福井県)の北ノ庄城を本拠地としていました。
柴田勝家との対立を優位に進めるために、豊臣秀吉は越後(新潟県)の春日山城主、上杉景勝と手を結びます。実際の交渉を任されたのが、石田三成、増田長盛、木村吉清の三人。この三人は今後も上杉氏との外交における実務を担当しました。
柴田勝家との争い
結局、豊臣秀吉は柴田勝家争うことになります。賤ヶ岳の戦いです。この争いでの石田三成の活躍は諜報活動でした。
越前の柴田勝家は雪のために、冬に軍を動かせません。豊臣秀吉はこの隙を突いて、柴田方に付いた、滝川一益が領した伊勢(三重県の一部)に侵攻。滝川一益は降伏したのです。
その後、柴田勝家の南下の知らせを受け、豊臣秀吉は近江に戻ります。柴田勝家の動向を、石田三成に探らせていたのです。その後、賤ヶ岳の戦いで、豊臣秀吉は勝利。
治部少輔への任官
賤ヶ岳の戦い以後も、三成は増田長盛、木村吉清とともに上杉家との外交を担当。一方で、小牧長久手の戦い、続く紀州攻めに従軍するも、三成は豊臣秀吉の、本陣にいました。政務や庶務に当たったと思われます。
小牧長久手の戦いの折には、近江(滋賀県)に行き検地(田畑の面積・収穫量調査)を実施。この時期は、戦地から離れていたようです。四国攻め、越中(富山県)の佐々成政攻めでは、豊臣秀吉が自ら出陣しなかったため、三成も従軍していないと考えられます。
その後、豊臣秀吉が朝廷から従一位、関白に任じられた際に、三成も従五位下、治部少輔に任官された模様。
東国諸将との外交担当
畿内・四国を平定した豊臣秀吉は、東国の平定に移ります。三成は新たに、真田昌幸との外交交渉を担当。
さらに、小牧長久手の戦い以後、敵対関係にあった徳川家康と豊臣秀吉の和睦が成立しました。これを機に、三成は増田長盛、木村吉清らとともに上杉氏・北関東の諸将に上洛(京に行くこと)を促します。東国諸将に豊臣秀吉への、臣従を催促したのです。
上杉景勝の上洛が決まると、三成は饗応を命じられます。加賀(石川県の一部)森本で上杉景勝を出迎えました。一向は金沢城で前田利家の歓待を受け上洛した後、大阪城で豊臣秀吉に拝謁。上杉景勝一向は大阪の三成の屋敷でもてなされ、居城の春日山城へ戻ります。三成は越後の雄、上杉氏の饗応という大役を滞りなく務めたのです。
堺奉行に就任
1586年、本能寺の変から4年後、織田信長の時代から堺政所を務め、堺の代官を務めていた松井友閑が突如として豊臣秀吉に罷免されます。
新たに堺奉行に就任したのが、小西立佐と三成。小西立佐は、堺の有力な商人と婚姻関係にあり、キリスト教会のイエズス会とも親交が深い人物でした。自身もキリシタンであり、商人だったと言われています。さらに、次男の小西行長は瀬戸内海の海運にも明るかったのです。
当時の豊臣政権の状況に目を向けると、九州では薩摩(鹿児島県の一部)の島津氏が拡大政策を推し進め反抗。一方で、徳川家康とは和睦するも、臣従させられていませんでした。そのため、豊臣秀吉は西日本の対応に手が回りません。島津氏の対応は他に任せることとなります。
対島津の兵站を担ったのが堺でした。当時、堺は最大の貿易港。堺の商人が使用する海上交易ルートを、兵糧等の輸送経絡として活用したのです。
堺は一時期、豪商達が自治を行なっていた街でもあり、独立色の強い地域でした。そのため、豊臣秀吉は堺の商人やイエズス会に顔の利く小西立佐と、実務能力に優れ信頼のおける部下、三成を堺奉行に抜擢したと考えられています。
九州平定の戦後処理
徳川家康を屈服させた豊臣秀吉は翌年、九州平定を目的に出陣。三成も従軍しました。島津氏が降伏するまでの三成の役割は、動員された諸将と豊臣秀吉との間の取次ぎ。諸将への軍令の伝達、諸将の戦況をまとめ報告することを担ったのです。
三成が活躍したのは、九州平定よりもその後の戦後処理。三成は細川幽斎とともに、降伏した島津氏との外交担当を任されます。
忙しくなる東国対応
九州平定後、東国各地で争いが起きます。出羽(秋田県と山形県)の庄内を巡って、上杉氏と最上氏が対立。上杉氏との外交を担当していた三成と増田長盛も豊臣秀吉への上杉氏の取次を行いました。結果は上杉氏方に有力な判決となりました。
また、蘆名氏が領有する会津を巡って、伊達氏と蘆名氏の間で争いが勃発。蘆名氏の当主は、常陸の佐竹義重の次男の義広が継いでいました。この関係から蘆名氏と豊臣政権との取次は三成が担当。蘆名氏家臣、金上盛備、盛実父子と三成はやり取りします。
また、小田原の北条氏氏討伐が内定すると、真田昌幸に詳細を知らせる書状送付。相馬氏には小田原攻めに参陣を要請。このように、九州平定後の三成は、東国対応に追われました。また大谷吉継とともに、美濃での検地も実行しています。
小田原征伐
豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出すと、三成もこれに従軍。三成は1500の軍勢を率いていたことから、この頃までにある程度の領地を有していたと思われます。しかし、その場所などは未だにわかっていません。
三成は九州平定の時と同様、豊臣秀吉の本陣で味方の諸将に他所の戦況報告、指示をしつつ、関東諸将へ参陣を要請。また、佐竹家当主の佐竹義宣が豊臣秀吉に拝謁するための指示も行なっています。
九州平定と異なるのは、三成が一軍の指揮官となって城攻めを命じられたことです。三成は2万3000の軍勢を指揮下に置き、館林城と忍城の攻略を担当。館林城は三成らが到着すると降伏勧告に応じ開城。
一方、忍城は豊臣秀吉に水攻めにすることを命じられていたためその指示に従いました。詳しい経緯に関しては未だに解明されていないものの水攻めは失敗に終わります。そして、小田原城が開城した後にようやく、忍城は開城しました。
奥羽仕置の実務
小田原城を降し、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は宇都宮にしばらく滞在し、会津まで進出。この間に、奥州と北関東の諸将の領地配分、取り潰す大名を発表しました。その後、豊臣秀吉は諸将に実務を任せ帰還。三成も奥州で実務に携わります。
三成が関わった奥州の諸将の配置については以下です。
- 石川昭光の所領没収
- 大崎義隆の所領没収
- 葛西晴信の所領没収
- 相馬余義胤の所領安堵
- 岩城氏への介入
三成は小田原征伐に参陣しなかった石川昭光、大崎義隆、葛西晴信の所領没収の手続き等を諸将と協力して遂行。大崎氏・葛西氏の旧家臣は、後に一揆を起こします。三成はこの一揆平定のために何度か奥州に派遣されています。
さらに、三成は岩城氏の家中にも介入。小田原征伐直後に、当主の岩城常隆が亡くなり実子の政隆は生まれたばかりであったため、豊臣秀吉の命により佐竹義重の三男で養子の貞隆が跡を継いでいました。三成は佐竹氏と豊臣政権との取次ぎを任されていたことから、岩城氏との取次ぎも任されることになったのです。
岩城貞隆は佐竹家からの養子であったため、家中で孤立したり、佐竹家から貞隆に附けられた家臣と岩城家の家臣の間で対立したりする危惧がありました。三成は岩城家中のこのような危険を取り除くために、岩城家中に入ってきた佐竹家を優遇する方針を指示。岩城氏の領内で検地を行い、岩城貞隆や佐竹家からやってきた家臣に多くの収入が入るよう取り図いました。
一方都では、千利休が豊臣秀吉に切腹を命じらます。三成が政敵の千利休を追い落とした結果などと言われ事もありますが、真相はわかっていません。
土地管理でも活躍
豊臣秀吉は全国統一を成し遂げたことで、全国の諸大名に地図と検地(田畑の面積・収穫量調査委)実施により、自領の石高(米の収穫量)を割り出させ書面にまとめ提出させます。天皇に献上することが目的でした。この実務を担ったのが三成ら。検地の方法などを取り決め、諸将に伝え、地図と石高を提出させました。実際の検地は領主主導で行われため、甘めの査定結果だったと考えられます。
さらに、三成は豊臣家の直轄地の管理も任されました。近江(滋賀県)佐和山城を拠点に、一円の直轄地の管理を担ったのです。(この時点で佐和山城は三成の居城ではなく、直轄地支配のために利用した城)小田原征伐、奥州仕置後、三成は領地を美濃(岐阜県南部)に与えられたと考えられていますが、場所と領地はわかっていません。
第一次朝鮮出兵
日本を統一し関白を辞して太閤となった豊臣秀吉は、明(中国)を征服するために、朝鮮半島に軍勢を派遣。豊臣秀吉自ら朝鮮に渡ると言い出しますが、この案は取りやめとなりました。代わりに、朝鮮での指揮権を委ねられた以下の武将が派遣されたのです。
指揮権を委ねられたとは言いつつも、朝鮮出兵全体の戦略は豊臣秀吉の意向が大きく反映されることになります。
漢城在陣
日本軍の指揮権を託された7人は、朝鮮王国の都、漢城に入城。約1カ月前から漢城は日本軍の掌中にあったのです。
漢城に到着して直ぐ、長谷川秀一と木村重玆は地方平定のために移動。また、前野長泰、加藤光泰は監察の立場に近いものだったため、実際に指揮を執ったのは、石田三成、増田長盛、大谷吉継の三人。
実際に朝鮮にやってきた三成らは、日本で聞かされていた情勢と実情に誤差があることを認識。食料と兵員の不足に直面していたのです。これらの問題があったため、朝鮮に派遣された諸将は、朝鮮半島の制圧を主張。一方で、日本にいる豊臣秀吉からは、更なる侵攻を求められます。
三成ら指揮権を委ねられたと3人は、豊臣秀吉に従いつつも、諸将の窮状を打破するたための指示を出します。小早川隆景には京畿道への転戦を命じる一方で、食料を確保するために、朝鮮半島各地の攻略と支配を指示したのです。
朝鮮制圧の頓挫
三成らの指示により、朝鮮半島の支配を進めるも中々事態は好転しません。むしろ、平壌を守っていた小西行長が、朝鮮・明連合軍の攻撃に耐えられなくなり敗走。開城にて諸将と合流するも漢城まで戦略的撤退。漢城が最前線となります。
朝鮮半島の北部にいた軍勢も、漢城に籠もったため食料事情が悪化。さらに、病気も蔓延。漢城は一気に窮地に陥るのです。
ここにきて、明が和議を提案。困窮していた日本側も提案を受け入れました。日本軍は朝鮮半島南岸まで撤退。一方、明側は日本に使節を派遣。豊臣秀吉には明が謝罪のために送った使節と伝えられましたが、この使節は明の正式な使節ではなかったのです。
三成は増田長盛、大谷吉継、小西行長らと明の使節を伴って日本に帰還。しかし、三成、大谷吉継、増田長盛の三人はすぐに、朝鮮半島にとんぼ返り。漢城からの撤退に伴ともなう、朝鮮半島南岸の拠点確保と構築を済ませる必要があったからです。拠点構築、和議がまとまるまで朝鮮に留まる諸将の配置が決まると、三成は帰国しました。
島津家の後継者争いと伏見城修理
三成は日本に帰国しても休むことはできません。島津家の後継者問題が起きていたのです。
九州平定で降伏後も、島津家中は豊臣政権に協力派と非協力派に分かれていました。協力派の筆頭が島津家当主の島津義久、協力派の筆頭が島津義久の弟義弘。この派閥争いが、後継者問題を介して表面化。三成は豊臣政権下と島津家の取次を任されていたので、この問題に積極的に介入します。
島津家当主、島津義久には男子がいませんでした。そのため、次期当主とされていたのは島津義弘の次男久保。しかし、島津久保は三成が朝鮮から帰国する前に、陣中で没してしまいます。
島津家の当主、島津義久は次期当主に島津彰久を推します。これを容認すると、豊臣政権協力派の勢いが強くなります。これを危惧した三成と島津義弘は、義弘の三男忠恒を次期当主に推認。結果いち早く豊臣秀吉に拝謁した島津忠恒が次期当主として認められました。
島津氏の後継争いと平行して、三成は豊臣政権の政務もありました。関白の位を退いていた豊臣秀吉は、隠居地を伏見に定めます。当初は邸宅を築く予定でしたが、城に変更。三成は増田長盛、浅野長政、長束正家、前田玄以らとともに、用材集めや移転計画の考案に奔走。
島津領・佐竹領の検地
島津家の後継問題を解決した後、三成は島津領・佐竹領に自らの家臣団を派遣し検地を実行。豊臣秀吉が検地帳を提出させた際に行った検地は、自領を収める諸大名自らが実施していたため、甘めの裁定となっていました。
この結果、島津領で約36万石、佐竹領で27万石ほど石高(見込まれる米の収穫量)が増加。増加した石高分の税収は大名とその一門、豊臣家に友好的な有力家臣に分配。大名の家臣団に平等に分配されたり、没収されたりしたわけではありません。つまり、検地は大名にとっても税収が増加する嬉しい政策だったのです。
一方で、豊臣政権に対して有利な政策も施しています。大名の領地内に、豊臣氏の直轄地や石田三成など豊臣政権の中枢を担う家臣団の領地を設置して代官を派遣し支配。領地内にこのような土地を設けることで、豊臣政権の人物が直接大名を監視。さらに、増加した税収を当主のみの収益としなかったとで、大名家は力つけるも、個人が力をつけることを抑止しましました。
佐和山城主
三成は豊臣秀吉の直轄地として管理を任されていた、近江佐和山城が与えられました。当時の史料では、三成が支配した領地での米の収穫量は19万石程度とも30万石程度とも言われていますが定かでありません。
ただし、豊臣秀吉の直轄地として、7万石程度が含まれていたことを考慮すると、一広くに知られている佐和山20万石が近いと思われます。
三成の領地では管理が徹底され、領民に管理の方針を明確に知らせ透明性を確保しつつ、領民自身が不当な搾取を訴え出る権利を保証されていました。豊臣政権内の政務で培った三成の経験が多いに反映されていたのです。
京都所司代就任
豊臣秀吉は、朝鮮出兵に際して関白の位を甥の秀次に譲っています。しかし、1年も経たずに豊臣秀吉に実子の秀頼が誕生。これを境に二人の仲を次第に悪くなっていました。
そしてついに、豊臣秀次に謀反の疑いが浮上。真偽はともかくとして、豊臣秀吉は三成と増田長盛を派遣し秀次に問いただします。
結局豊臣秀次は関白の地位を追われ、高野山に追放後切腹させられます。豊臣秀次と親しかった諸大名の中にもこの事件に巻き込まれた者が多くいました。浅野長政も息子の幸長が豊臣秀次を擁護したことから、豊臣秀吉の怒りを買い、重要な政務から外されています。
政権内の大事件であったため、三成らは混乱を防ぐための書状を諸大名に送付。また、豊臣秀頼への忠誠を誓う宣誓書を提出。有力大名もこれに倣います。
三成は豊臣秀次を切腹させた事件の後、増田長盛とともに京都所司代に就任。前田玄以が以前から任じられていたので三人制となります。三成は下京を担当し、秀次事件後の処理を行なっていたようです。ちなみな、三成は豊臣秀次の旧臣を家臣に加えています。
五奉行制の先駆け
この頃になると、後に五奉行と呼ばれる組織の先駆けのような繋がりが誕生します。三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の4人が連携し政務担うという誓約書が提出されます。ただし、「五奉行」という役職は豊臣秀吉死後にもなかったことは注意が必要。後世の人が言い出したものです。
第二次朝鮮出兵で不興
豊臣秀吉は明の正式な使節と大阪城で会うものの明側が、日本側の要求を認めませんでした。そのため、豊臣秀吉は朝鮮への再出兵を命じます。第二次朝鮮出兵の目的は、朝鮮半島の南部半分を日本の領土として実力で認めさせること。豊臣秀吉は明に、朝鮮半島の南半分を日本が領有することを要求していました。
出兵目的が明の征服であった最初の出兵よりも、目的が大きくなかったこともあり石田三成らは渡海しませんでした。ちなみに、三成はこの出兵に反対だった様子。日本の統一で満足すべきという書状が残っています。
代わりに、現地の戦況を伝えさせるとともに、諸将の活躍を公正に評価するために、目付衆(監察)を派遣。目付衆からの報告は石田三成ら奉行衆に届けられ、豊臣秀吉に伝えられました。目付衆として派遣されたのは以下の武将です。
この中で、熊谷直盛と福原長尭は石田三成の親戚です。この二人が後に、三成と朝鮮に派遣された武将との間に悔恨を残す事件に関与します。
第二次朝鮮種出兵の中で行われた激戦に、蔚山城の戦いがあります。加藤清正ら1万がが築城したばかりの蔚山城に籠城し、6倍近くの明・朝鮮連合軍の攻撃を10日間も耐え抜いた戦いです。この戦いでは、日本軍の援軍が蔚山城に駆けつけたことで、日本軍の勝利となります。
蔚山城の戦いの後、救援の援軍に派遣された武将だった蜂須賀家政と黒田長政が、戦いに加わらなかったと、垣見一直、福原長尭、熊谷直盛が豊臣秀吉に報告。これにより、両者は豊臣秀吉に叱責されます。蜂須賀家政に至っては一時的に帰国した際に、そのまま領地の阿波(徳島県)で謹慎を命じられました。
黒田長政、蜂須賀家政は福原長尭、熊谷直盛が三成の親戚であったことより、報告を行った両者だけでなく三成にまで恨みを抱くことになったのです。
佐竹氏を全力で擁護
朝鮮で諸将が戦いに勤しんでいる間も、三成は休んでいるわけではありません。蔚山城の戦いの少し前、国内では大問題に発展しかねない事態が起きていました。宇都宮の宇都宮国綱が突如、所領を没収されます。
何が問題なのだと思うかもしれませんが、大問題です。宇都宮国綱は佐竹氏の親戚にあたります。つまり、佐竹氏も連座(一族も処罰を受けること)により処分を受ける可能性が生じたのです。
三成はこれを全力で回避するために、豊臣秀吉に佐竹氏の取りなしを行うとともに、佐竹義重(佐竹氏の前当主)の上洛を指示。浅野長政に見つからないように上洛するよう指示しています。このことから、浅野長政と三成の政争が指摘されることもありますが、詳しくはわかっていません。この頃から、浅野長政は政務に復帰しています。
三成の取り成しもあったからか、最終的に佐竹氏への処分は見送られました。宇都宮には蒲生氏が、蒲生氏が去った会津には上杉氏が、上杉氏が去った春日山には堀秀治が与えられたのです。
筑前・筑後へ代官派遣
小早川秀秋が朝鮮から帰国。豊臣秀吉は、朝鮮に渡海していた小早川秀秋に再三に帰国命令を出していたのです。そして、帰国していた小早川秀秋に、筑前・筑後(福岡県の一部)から越前(福井県)への転封を命じました。
豊臣秀吉は、三成に筑前・筑後四郡の支配を持ち掛けますが、三成はこれを拒否。そこで豊臣秀吉は、三成に代官を派遣し筑前・筑後を統治することを命じました。豊臣秀吉は、三成、福島正則、増田長盛を大将にして更なる朝鮮出兵を目論んでいた様子だったので、三成の筑前・筑後支配はその布石だったのかもしれません。
三成は筑前・筑後の代官支配の体制を築くために現地に赴くも、わずか約1月半で京に舞い戻ることに。豊臣秀吉の死期が迫っていました。
豊臣秀吉の死
京に戻った三成は豊臣秀吉の見舞いに行きました。そして、来年に予定していた大阪城の大規模な改築を実行。大阪城は豊臣秀頼の居城となる城だったので、改築は急務だったのです。
一方で、三成が代官を派遣し支配することとなっていた小早川秀秋の旧領は浅野長政と分けて統治することとなります。これも、豊臣秀吉の死期が近づいたからでした。
豊臣秀吉は自身の死を悟り、遺言をしたためます。自身の死後は「五人の衆」などと呼ばれる「五大老」、「五人の者」と呼ばれる「五奉行」で政権運営を行わせようとしました。「五大老」、「五奉行」という呼称は後世の人が作った呼び名です。
1598年8月18日、豊臣秀吉は死去。三成は五奉行として政権運営を担うことを期待されたのです。しかし、豊臣秀吉の死後の政権運営は豊臣秀吉の期待通りには進みませんでした。五大老、五奉行を含めた諸大名が対立や結託を実行。最大の実力者、徳川家康も動き始めます。三成は、増田長盛、長束正家、前田玄以らと行動をともにしました。
朝鮮出兵の後始末
このような中で、朝鮮に渡っていた諸将の撤退が決定。三成は浅野長政、毛利秀元とともに出迎えを命じられ、九州に向かいました。諸将の出迎えを終えると、三成は大阪に帰還。
三成が代官を派遣し統治を任されていた筑前・筑後は小早川秀秋に返還されます。これは、豊臣秀吉の遺命でした。朝鮮出兵が取り止めになり、朝鮮半島に近い筑前・筑後を三成が管理する必要なくなったためと考えられています。
毛利家の領土問題
五大老にも任命された中国地方の大大名、毛利輝元は領土問題を抱えていました。毛利秀元への領地割譲問題です。この問題を利用して、三成らは毛利輝元を自陣営への抱き込みを図ります。
毛利輝元は長い間子供に恵まれませんでした。豊臣秀吉は毛利輝元の養子として、自身の養子となっていた豊臣秀俊を送り込む計画を立案。毛利氏を豊臣氏に取り込もうとしたのです。豊臣秀吉はこれを毛利輝元の家臣、小早川隆景に相談。
小早川隆景は主家を守るために、豊臣秀俊を自身の養子にするよう豊臣秀吉に懇願。一方、毛利輝元は従弟の毛利秀元を養子としました。ちなみに、小早川隆景の養子となった豊臣秀俊が、ここでも何度か登場した小早川秀秋です。
この後、毛利輝元は男児を授かります。この男児は、豊臣秀吉に毛利家の次期当主と認められました。一方で、豊臣秀吉は、毛利秀元への領地割譲を厳命。
- 出雲
- 銀山を除く石見
上記の土地を毛利秀元に譲らせようとしたのです。豊臣秀吉は巧みに、毛利氏の勢力を削ごうとします。しかし、豊臣秀吉が亡くなったためこれは実現されませんでした。
これに目を付けた三成と増田長盛は、毛利秀元への割譲地を以下に改めます。
割譲地は豊臣秀吉の裁定よりも石高は少なく、毛利輝元に有利でした。豊臣秀吉死後、不安定な政権運営が続く状況下で、三成らは毛利氏を自陣営に加えようと画策したのでした。
前田利家の死
豊臣秀吉が存命時から、徳川家康に対抗できる唯一の人物として目されていたのが、前田利家です。前田利家は豊臣秀吉の死後も、一定の勢力を保持。前田利家は豊臣秀吉死後に、三成擁護派として描がかれることもありますが、常に味方だったようではありません。
前田利家も豊臣秀吉の死期が迫った頃には体調を崩すようになっていました。そして、豊臣秀吉の死から1年も経たずに、前田利家は死去。ここから、事態は目まぐるしく変化します。
石田三成襲撃事件と隠居
豊臣政権下で大きな影響力を持っていた前田利家の死は、直ちに顕在化。七将が、大阪城下の石田三成の屋敷を襲撃したのです。石田三成襲撃事件の原因や七将の、顔ぶれについては未だに正確にはわかっていません。七将の候補として以下のような武将が挙げられています。
これらの武将による襲撃を受けた三成は、伏見城の治部少丸にあった自分の屋敷に逃れました。治部少郭という名の通り伏見城の防御施設の一角を占めていたと思われます。また、伏見城には増田長盛、前田玄以も在城しています。
伏見城の治部少丸に逃げ込んだ三成は敵対姿勢を見せます。毛利輝元に尼崎への出陣を要請するなど、当初は徹底抗戦するつもりだったようです。
しかし、最終的には毛利輝元、上杉景勝に最終判断を任せました。両者は徳川家康と話し合った上で石田三成の処分が決定します。三成への処分は佐和山城での謹慎でした。徳川家康が主導で処分を決めたようです。この処分を聞いた三成は心が折れた様子だったと記されています。
さらに、七将は増田長盛に対する処分も要求していたと言われていますが、三成の処分のみで事件は解決。最終的に、石田三成襲撃事件を解決に導いた徳川家康の株だけが挙がる形で収束しました。
加賀征伐
徳川家康は石田三成襲撃事件後、伏見城から大阪城に移動。三成の屋敷を居所としました。突如、前田利長(前田利家の息子)に徳川家康暗殺計画の嫌疑浮上。前田氏は、利家死後も一定の勢力を持っていました。
徳川家康は、前田利長が軍勢を率い上洛するのを防ぐために北陸方面へ軍勢を派遣。興味深いことに、北陸方面には石田軍も派遣されたそうです。これに関しては、三成が徳川家康に協力的だったとも、協力的な振りをしたとも解釈が別れます。
一方の前田利長は直ちに、母の松を人質として江戸(徳川家康の本拠地)に差し出し嫌疑を晴らします。こうして、加賀征伐は中止となりました。
会津征伐
加賀征伐は中止に至るも、翌年になると会津の上杉景勝に謀反の嫌疑が掛けられます。徳川家康は上洛を要求するも、上杉景勝は延期を求めました。
上杉景勝は領地が会津に代わったばかりで、支配体制を築くために帰国していたのです。そして、帰国を勧めたのは、謀反の嫌疑をかけたのは徳川家康。企みの匂いがします。徳川家康は上杉景勝の延期の申し出を撥ね付け、会津征伐を実行。諸大名に会津征への従軍を要請。
ここで、触れておくべきことがあります。増田長盛、前田玄以、長束正家が会津征伐への従軍を諸大名に要請していることです。この時点で、三奉行(浅野長政はこれ以前に謹慎させられている)は、会津征伐を支持しています。会津征伐に対し三奉行が積極的だったのか、渋々認めたのかまではわかりませんが、少なくとも認めていたのです。
会津征伐には、大谷吉継も軍勢を率い参加する予定でした。しかし、美濃(岐阜県南部)垂井で体調を崩し進軍を中断。ここで、三成は大谷吉継と談義を交わし、徳川家康討伐のために挙兵を決意したと言われています。
これが、三成が関ヶ原の戦いにおける西軍挙兵を主導した説の論拠の一つです。しかし、この話は後世の創作の可能性もあり、確実視できるわけではありません。
内府ちがひの条々
一方で大阪城にいた三奉行は、毛利輝元へ大阪城に入ることを要請。また、諸大名の屋敷を軍事的に制圧。その後、西軍の宣戦布告とされる「内府ちがひの条々」を毛利輝元、宇喜多直家、三奉行が発行。
三成がこれまでの経緯に対し、どの程度関わっていたか定かではありません。西軍挙兵を主導したという説もあれば、反対に全く関わらなかった説まであります。ここでは、三成の西軍挙兵への関与はまだわかっていないのです。
ここからは筆者の見解です。「内府ちがひの条々」の発行者として、三成の名はありません。しかし、これを以って石田三成が、西軍挙兵の主導者ではないと断じるのは早急な気がします。
なぜなら、この時点で三成は、謹慎処分の身だからです。職を追われ、謹慎中の三成の名が書状にあれば、書状が持つ権威は低下すると思われます。そのため、主導者であったとしても、この時点では名を連ねるにはリスクが高過ぎます。実際に、内府ちがひの条々が出される前に、三成が三奉行らと談義を重ねていたなどと記された書状も残っています。
畿内平定と上杉景勝との連携
三成ら西軍は、徳川家康が「内府ちがひの条々」により正当性を失ったことで動きが取れなくなると予想。この隙に畿内(京周辺)の制圧に取り掛かります。
徳川家康に与した細川忠興の領地、丹後(京都府北部)征伐、徳川家康の家臣が守っていた伏見城攻略を実行。三成も伏見城攻めに途中から加わっています。
さらに、三成は会津の上杉景勝に徳川家康を北から牽制することを要請するために、信濃の(長野県)真田昌幸を介して書状を再三送付。これが、上杉景勝に届いたかまでわかっていませんが、三成が上杉景勝との連携の重要性を考えていた事実は残っています。
東軍の素早い西上
西軍はさらに、伊勢(三重県の一部)、美濃(岐阜県南部)、北陸の平定を画策。三成は上杉景勝と連携することで、徳川家康を会津に釘付けにしている最中にこれら地域を平定。
そして、徳川家康が正当性を失ったことにより、会津征伐に従軍した諸将が寝返ることを期待。徳川家康とは、尾張から三河に渡る愛知県のどこかで決戦を挑むつもりだったようです。
しかし、三成の思い通りに事は運びませんでした。会津征伐に従軍した諸将の寝返りはなく、また東軍は東海道を想定より早く西上。当初の想定とは異なる形で決戦を迎えることになります。当初は尾張から三河の愛知県で東軍を迎え撃つ予定でしたが、美濃にて決戦を行うことになります。三成は美濃方面の総指揮を務めていたことから、東軍との決戦でも大将を任されました。
関ヶ原の戦い
三成は関ヶ原の戦いに先立ち、予定通りに物事が進まないこと、西軍諸将の戦意が高くないことに苛立っていた模様。大阪城に向けた書状で嘆いています。
長束正家や安国寺恵瓊が、戦略的価値の低い場所に陣取ったり、諸将が、食料調達のために田んぼの稲を刈り取ることすらしなかったりすることを非難。また、小早川秀秋に裏切りの兆候があることも見抜いています。
大阪城に向けても毛利輝元の出陣要請や、これが叶わずとも毛利軍を佐和山城まで派遣することを要請。東軍から寝返りが出ないのは、大阪城にいる諸将の人質の扱い方が手ぬるいからだという非難まで行なっています。
最終的に東軍の諸将に続き、徳川家康も美濃に到着。関ヶ原にて決戦が行われたのです。詳しい経過は以下を参考にして下さい。
三成の軍勢は関ヶ原の戦いで善戦するも、黒田長政の部隊から横槍を受けたことを契機に崩れます。西軍には戦意の低い諸将や裏切り者がいたため敗退。三成は逃亡しました。
最期
逃亡した三成は伊吹山に潜伏。しかし、程なくして田中吉政の手の者により捕縛されます。近江(滋賀県)伊香郡古橋村にて捕まったそうです。三成は徳川家康と大津城で面会。徳川家康は、三成を敗軍の将としではなく厚く接したようです。
その後、三成は小西行長、安国寺恵瓊とともに大阪・堺を見せしめで引き回された後、京へ身柄は移送。京でも引廻された後、その日の内に最期を迎えることになります。
徳川家康の簡単解説:web武将名鑑
徳川家康は、広く世に知られた人物です。ここでは、徳川家康が歩んだ生涯について簡単に解説します。
~基本情報~
< 総括 >
約13年間の人質生活
徳川家康は、愛知県(三河)の岡崎城で、松平広忠の嫡男として誕生しました。「徳川」は改名後の姓であり、本来の姓は「松平」です。当時の松平氏は、西の織田氏、東の今川氏という巨大勢力に挟まれいていました。そのため、家康は、臣従の証として人質生活を過ごします。
織田家の人質 2年間
まずは、織田家の人質となります。今川家の人質として、護送されていたところ、戸田康光が裏切って、織田家に送られたとも、岡崎城が織田家に攻略されたために、恭順の証として、織田家の人質となったとも言われています。
今川家の人質 11年間
織田家の人質となってから2年後、今川家が捕らえた織田信広(信長の庶兄)との人質交換により、今川家の人質として、駿府に送られます。そして、今川家の下で元服し、「松平元康」と名乗ります。
織田信長と同盟を結ぶ
織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで討つと、徳川家康は今川家から独立し、三河の統一を行いました。そして三河統一の途中で、織田信長と清州同盟を結びます。
メリット
この同盟によって、背後を気にせずに、三河の統一、今川領の遠江の併合を行うことができました。そして居城も岡崎城から、浜松城に移しました。
デメリット
織田信長が行った大規模な戦いに駆り出されるとともに、対武田の盾の役割を任されることになりました。
徳川家康が参戦した戦い
人生最大の負け戦
徳川家康が惨敗した戦いが、三方ケ原の戦いです。
家康が遠江を支配下に治めた後、戦国最強と謳われる武田信玄が西上を開始します。武田信玄は、徳川家康が支配下に治めた遠江に攻め入ってきました。
三方ケ原の戦い
武田信玄は、わざと家康が籠る浜松城の目と鼻の先を素通りします。この行軍を浜松城から見ていた家康主従は、侮辱と捉え出撃します。しかし、これは武田信玄の作戦通りで、浜松城より先の三方ケ原で徳川軍を待ち伏せし、完膚なきまでに打ち破りました。惨敗した家康は、ほうほうの体で、居城の浜松城に戻りました。
しかし、西上の途中で、武田信玄は病気で亡くなりました。織田信長とともに、家康は九死に一生を得たのです。
旧武田領の併合
1582年、本能寺の変が起き、織田信長が亡くなりました。このとき、家康は京都にいましたが、有名な伊賀越えを成し遂げ、三河までたどり着きました。
話は遡りますが、織田信長は本能寺の変の少し前に、武田家を滅ぼしていました。そして、家臣を派遣して、甲斐(山梨県)信濃(長野県)の統治を行っていました。
しかし、織田信長が亡くなると、旧武田領(甲斐、信濃)では一揆が起きたり、隣国の北条家や上杉家に狙われたりして、織田家の家臣の中には討ち取られるものや、逃げ帰るものが続出します。武田家を滅ぼして、3ヶ月しか経ていないので、仕方ありません。
家康は、甲斐と信濃に配下の武田家遺臣を派遣するとももに、自らも甲斐に乗り込んで、地元の武田家遺臣の掌握を図りました。信濃の支配にはてこずりましたが、北条家、上杉家との三つ巴の争いを乗り越え旧武田領の大部分を獲得できました。
旧武田領を支配下置く効果
旧武田領を支配下に置いたことで、武田遺臣を家臣に加えることができました。武田遺臣は戦国最強と言われた猛者ばかりです。武田遺臣を、自陣営に迎え入れたことで、徳川家の軍事力が大きく増強されました。
豊臣秀吉への敵対と臣従
甲斐と信濃を手に入れた、家康に、強敵が立ちはだかります。豊臣秀吉です。豊臣秀吉は、山崎の戦いで織田信長の仇、明智光秀を敗死させたことで、影響力を拡大していました。
家康は、織田信長の次男である織田信雄と手を組み、豊臣秀吉と争いました。小牧長久手の戦いです。
この戦いで、豊臣秀吉が派遣した部隊を、家康は撃破しました。しかし、その後戦線は膠着してしまい、講和することになりました。そして、大阪城に出向き臣従の意を示します。ただし、この争いで、「唯一豊臣秀吉に戦いで勝った人物」という印象を対外的に植え付けることに成功しました。
その後、豊臣秀吉が関東の大大名北条氏を滅ぼすと、家康は旧北条氏の領地に国替えを命じられます。本拠地を江戸に定めました。
天下取りとその後
豊臣秀吉が死ぬと、家康は徐々に専横を始めます。そして、関ヶ原の戦いで勝利し、翌年には、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きました。
その後1605年には、息子の徳川秀忠に将軍職を譲り、征夷大将軍職を世襲制にすることを示します。つまり、徳川家将軍家が頂点に君臨する政権が、自分の死後も続くことを世に示したのです。
家康は将軍職辞任後は、駿府城に移り、大御所として政治を行いました。最晩年に、後顧の憂いをなくすため、大阪の陣にて、豊臣家を滅ぼしました。そして、豊臣家を滅ぼした翌年、この世を去りました。
ラクダの赤血球が塩分濃度変化に強い理由:web動物図鑑
ラクダは、暑く乾燥した地域で、生き抜くことできるように、血管に大量に水を貯えたり、脱水状態におかれたりしても命に別状はありません。
これは、他の動物の赤血球が溶血し(壊れない)たり、形状が変わったりする塩分濃度でも、ラクダの赤血球はこのような変化が生じないからです。つまり、血液の塩分濃度変化が起きても、ラクダの赤血球は変化が起きにくく正常な状態を保てるのです。詳しくは、以下を参考にしてください。
前置きが長くなりましたが、なぜ、ラクダの赤血球は、他の動物の赤血球に比べて、塩分濃度の変化に対して耐性があるのでしょうか。これに対して、完全な答えは出ていませんが、部分的にはわかっています。ここでは、現在までにわかった、この質問に対する答えを見ていきましょう。
赤血球が楕円形でヘモグロビンが多い
ラクダの赤血球に含まれるヘモグロビンの割合は、他の動物よりも大きいです。
~ヘモグロビン~
赤血球に含まれるタンパク質で、酸素と結びつく。赤血球の中の、ヘモグロビンと酸素が結びつき、赤血球が血流にのって肺から全身まで酸素を運ぶ。
ラクダの赤血球に含まれるヘモグロビンの割合が、他の動物に比べて、大きい理由は2つ考えられています。
一般的に、動物の赤血球は、円盤状で両面の中央部が凹んでいます。一方で、ラクダの赤血球は、楕円形で、中央は凹んでいません。また、他の動物の赤血球に比べ、ラクダの赤血球のは薄いです。
そのため、ラクダは他の動物に比べ、赤血球の体積が小さく、赤血球内にヘモグロビンが、より密に詰まっていると考えられます。
一方で、ラクダの赤血球に含まれるヘモグロビンの量が、単純に他の動物に比べて多いということも考えられます。
いずれにせよ、ラクダの赤血球は、多少水分を吸ってもヘモグロビンの割合が大きいため、酸素を運搬する機能は低下しにくく、効率的に酸素を全身に運ぶことができます。
スペクトリンというタンパク質のおかげ
血液中の塩分濃度が低下して、赤血球に水分が流入しても、ラクダの場合、赤血球は破裂しにくいです。これは、ラクダの赤血球の細胞膜が、他の動物に比べて丈夫なためです。
ラクダの赤血球の細胞膜が丈夫な理由が、細胞膜に含まれる「スペクトリン」という名の、タンパク質にあるという説があります。スペクトリンを取り除くと、ラクダの赤血球の細胞膜は、形状を維持できず、ばらばらになることが明らかになっています。
また、細胞膜に常に固定されている、膜内在性タンパク質と呼びます。膜内在性タンパク質が作る「内在性骨格」が、赤血球の細胞膜を支えているという報告もあります。しかし、これを提唱するにはまだ、証拠不足な気がします。
脂質の成分の割合
脂質の成分の割合も、赤血球の細胞膜の丈夫さに影響すると言われています。一口に脂質と言っても、様々な成分が含まれています。今回注目するのは、脂質のグループの一つ「リン脂質」です。
リン脂質も様々な種類があります。ここで注目するのは以下です。
- スフィンゴミエリン
- ホスファチジルコリン
- アミノリン脂質
ラクダと他の動物の赤血球の細胞膜に含まれる、上記の成分を比較すると、ラクダの赤血球の細胞膜には、スフィンゴミエリンとホスファチジルコリンが多く含まれる一方、アミノリン脂質の量が少ないことがわかっています。
赤血球の細胞膜に含まれる、スフィンゴミエリンとホスファチジルコリンの量が多く、アミノリン脂質の量が少ないほど、赤血球の細胞膜は丈夫になると言われています。これは、ハムスターの赤血球を加熱して、細胞膜の丈夫さを調べる実験などで確認されています。
この結果から、脂質の成分の割合も、ラクダの赤血球の細胞膜が丈夫であることに、大きく関係していると考えられます。
web武将名鑑:その8~織田信長の一門衆2~
web武将名鑑その8です。織田信長の一門について紹介しています。今回も織田信長の息子たちですが、ひとつ注意があります。
実は、織田信長の息子に関しては、六男以下わかっていないことが多いです。さらに、四男の秀勝と五男の信房に関しては、長幼が逆の可能性があるとも言われています。
これは、織田信長が生きていた頃には、六男以下の息子達が幼かったことと、長男から三男のように優遇されなかったことが原因です。
おだけ はいかの とおやましの ようしにだされたが とおやましが だけだけに ねがえり ひとじちと なった。そのご たけだけから おだけに おくりかえされた。たけだぜめで てがらを あげ おだのぶただを ささえる ゆうりょくな しんぞくとなったが ほんのうじのへんで しぼうした。
きりすときょうに かいしゅうした きりしたんだいみょう。ちょうせんしゅっぺいでは ひぜんまで さんびゃくにんを ひきいて おもむいたが じっさいに ちょうせんには わたらなかった。ちょうせんしゅっぺいの としに はんせんびょうで なくなった。
せかいがはらのたたかいでは たたかいに さんか しなかったが がいせんする とくがわいえやすに めんかいし りょうちを あんどされた。しそんは はたもととして とくがわけに つかえた。
せきがはらのたたかいでは せいぐんに ぞくした。そのため たたかいごに りょうちを ぼっしゅうされ とよとみけを たよりに おおさかで くらした。おおさか なつのじん まえに なくなった。
コビトカバの特徴:web動物図鑑
ここでは、コビトカバの特徴を紹介しています。
それほど水には入らない
コビトカバは「カバ」と名前に入るため、つい水中で生活していると思いがちです。確かに、コビトカバは、カバの仲間で、泳ぎは得意ですが、カバほど水に入ることはありません。しかし、他の動物に比べれば、水には入る方です。
コビトカバは、水中よりも、むしろ陸上の水辺に近い森林で生活することの方が多いです。また、カバと同様に体毛が生えていないため、皮膚を乾燥から守る必要があります。そのため日陰を好み、水浴びや泥浴びをします。
カバほど水中生活に適していない証拠
目
コビトカバ:顔から突出していない。
カバ:顔から突出している。
水中で生活するカバは、水面から顔全体を出さずに周囲を警戒するために、目が顔から突出しています。一方で、コビトカバは水中で生活をしないため、目が顔から突出していません。
背骨
コビトカバ:曲がっている。
カバ:水平になっている。
コビトカバとカバの背骨を比較すると、コビトカバの背骨は丸くなっています。一方、カバの背骨は真っ直ぐです。この背骨の形状の違いは体つきにも現れていて、コビトカバの方が猫背のように見えます。
コビトカバは、木々が生い茂る森林を歩き回ることに適応した結果、丸く、曲がった背骨になったと考えられています。また、コビトカバの脚と首は長く、顔は小さいですこれも、森林での生活に適応した結果だと考えられています。
食事
コビトカバは草食動物です。コビトカバは、植物なら何でも食べます。以下のようなものを食べています。
- 木の葉
- 根
- シダ類
- 果実
- 水生植物
- 草
コビトカバは、1日のうち6時間も、食べ物を探して歩き回ります。カバが4~6時間かけて、食事に費やすことを考えると、コビトカバの方がわずかに長いと考えられます。また、コビトカバの食べ物の方が、カバの食べ物よりも栄養分が多いです。
血の汗
コビトカバはカバと同様に、血の汗をかきます。これは、乾燥や、紫外線から肌を守るためです。この血の汗の色は、薄いピンク色です。
生活様式
コビトカバは、基本的に縄張りを持ち単独で生活しています。ただし、オスとメスのつがいや、母と子のように、小さな集団で暮らすこともあります。オスとメスでは、一般的にオスの方が縄張りは広く、オスの縄張りはメスの縄張りと重なる部分があります。
また、コビトカバは、縄張りが被り他のコビトカバび遭遇しても争わず、お互い無視しようとします。縄張りをめぐり、オス同士が争うカバとは大きく異なります。
web武将名鑑:その7~織田信長の一門衆1~
web武将名鑑その7です。今回から、織田信長の一門について紹介していきます。まずは、織田信長の子どもからです。
おだのぶなが から かとくを ゆずられ おだけ ほんごくの おわりと みのを ゆずられた。そうだいしょうとして ぶかを つかいながら たけだけを ほろぼした。ほんのうじのへんで いのちを おとしたが いきのこっていれば とよとみひでよしの てんかは なかっただろう。
かってに りんごくの いがに せめこんで たいはいし ちちの おだのぶながを おこらせた ことがある。ほんのうじのへんの あと とよとみひでよしの いきおいを ふせぎ きれなかった。おおさかのじんごは とくがわいえやすに ごまんごく りょうちを あたえられた。
じゅんちょうに こうせきを かさね しこくえんせいの しきかんに しゅうにんした。しかし しゅっぺいの ちょくぜんに ほんのうじのへんが おきた。せんおうを すうすめる とよとみひでよしに はんきを ひるがえすも やぶれて じがいさせられた。
ながしののたたかいの つぎの としに はしばひでよしの ようしに なった。はしばけ あんたいの ためだったと いわれている。とよとみひでよしが かんぱくに なった としに びょうきに より なくなった。
カバはフンの活用が上手:web動物図鑑
カバは、フンの活用がとても上手な動物です。カバは糞を主に3つの用途で使います。ここでは、これら3つのフンの活用について紹介しています。
母親のフンを子どもが食べる
離乳したカバの子どもは、母親のフンを食べます。これには、理由があります。
基本的に、動物は植物の大部分を自力で消化することはできません。これは、草食動物も同じです。そこで、草食動物は消化管の中に、植物を分解するための微生物を、飼っています。草食動物が植物を食べると、微生物が代わりに植物を分解して、栄養分を産生しているのです。
カバの話に戻すと、母親から離乳したばかりの子供のカバのお腹には、植物を分解してくれる微生物はいません。そこで、カバの子どもは、植物を食べ始める前に母親のフンを食べて、お腹の中に微生物を住まわせるのです。
水中でフンをまき散らす
カバは、水中でフンをする際に、尾を振り回してフンを水中で、まき散らします。水中でフンをまき散らせば、水が濁ります。その結果、敵に見つかりにくくなるのです。
また、オスのカバがフンをまき散らすのには、別の理由もあります。オスのカバは、フンをまき散らすことで、縄張りを主張しているのです。
陸上でフンをまき散らす
水中と同様に、カバは陸上でもフンをまき散らします。この行動には、水中とは異なる意味もあります。
まず、オスのカバがフンを、陸上でまき散らす理由は、縄張りを主張するためです。この理由は、水中でフンをまき散らす理由と変わりません。
もう一つの、陸上でフンをまき散らす理由が、フンを道しるべにするためです。カバは、夜になると、陸に上がり、エサを探します。
そして、日が昇る頃には、元の水場へ戻る必要があります。そこで、水辺の近くを離れても、帰り道がわかるように、道中フンをまき散らしながらエサ探しをします。
一言
他の動物も、縄張りの主張などにフンを活用することもありますが、カバのフンの活用は本当に多種多様です。ここまでフンを活用する動物は、他にいるのでしょうか?
web武将名鑑:その6~東北の有名戦国大名~
web武将名鑑その6です。今回は東北地方の戦国大名を紹介しています。
ぶゆうに すぐれて いながら ちょうりゃく などの こうさくも とくいな ばらんすの とれた ぶしょう。いちだいで まわりの ていこう せいりょくを いっそうした。せきがはらのたたかいでは とくがわいえやすに つき やまがたの だいぶぶんを おさめた。
ようふの なんぶはるまさ ぞんめいじから れいせんのような かとくあらそいを えんじた。かとくあらそいの ごたごたで つがるためのぶに りょうちを おおきく うばわれた。
なんぶけの うちわもめに びんじょうして あおもりけん とうぶの つがるちほうを りょうちにする。とうほくちほうでは めずらしい おおきな げこくじょうを なしとげた。うばった りょうちの しはいけんを いちはやく とよとみひでよしに みとめさせ かくほする しゅうとうさを あわせもっていた。
仮名:平四朗
あしなけの さいせいきを きずいた じんぶつ。 しゅういを ほうじょうや うえすぎ さたけ だて などに かこまれた あいづを たくみな がいこうや へいを まじえた たたかいで まもりきった。しかし ばんねんには あとつぎの もんだいや せんぴの もんだいから じょじょに ちからを うしなった。
水中での生活に特化したカバの体のつくり:web動物図鑑
カバは、水中での生活に適応した体のつくりになっています。カバにはここでは、水中生活に特化した、カバの身体の特徴に迫っていきましょう。
カバのその他の特徴については、以下で紹介しています。
目、耳、鼻の位置
目、耳、鼻:一直線上にある。
カバは、水面に目、耳、鼻だけを水面から出せるように、これらが、一直線上になるようについています。体の他の部分を水面から出さずとも、周囲を警戒できるようにするためです。さらに、顔全体を出さずとも呼吸が可能です。
耳と鼻に水が入るのを防ぐ
耳、鼻:閉じることができる。
カバは水中に潜る際に、耳や鼻に水が入るのを防ぐために閉じることができます。また、最長で5分間息を止めて、潜水することが可能です。
水かき
指の間:水かきがある。
カバの足の指の間には水かきがあります。水中での移動には、水かきがある方が有利です。ちなみに、カバの水中での移動速度は、約時速8 kmです。巨体にも関わらず、人間よりも早く泳げます。
水に沈みやすい体
密度:水よりわずかに大きい。
カバは、水よりも密度がわずかに大きいです。そのため、水に入ると、容易に沈むことができます。水に沈みやすいため、移動は水底をあるくようにして移動します。一方で、呼吸をする際に、大きく肺を膨らませることによって浮くこともできます。
脚
脚:体の大きさのわりに短く細い
カバは、ゾウやサイなど大型の肉食動物に比べて、体の大きさのわりに、脚が短く細いです。カバは一日の大半を水中で過ごします。水中では浮力がはたらき、陸上よりも脚にかかる、荷重が小さいです。そのため、体のわりに細い脚で生きていけます。
一言
カバの目、耳、鼻が一度に水面に出るようなつくりなっていることは有名です。しかし、これ以外にも、水中で暮らすことに特化した体つきをしていることがわかっていただけたと思います。筆者は、カバに脚の細いイメージが何となくありましたが、水中での生活に特化したためだとは知りませんでした。