シマウマの特徴:web動物図鑑
ここでは、シマウマの特徴を紹介しています。一口にシマウマといっても、実は3種に分かれます。また、縞(しま)模様の理由についても紹介しています。
3種に分類
冒頭でも述べましたが、「シマウマ」と呼ばれる動物は、以下の3種に分類されます。
- ヤマシマウマ
- サバンナシマウマ
- グレービーシマウマ
それぞれの特徴をまとめます。
ヤマシマウマ:お腹に縞がない、縞が疎(間隔が広い)
サバンナシマウマ:お腹に縞がある、縞が疎(間隔が広い)
グレービーシマウマ:お腹に縞がない、縞が密(間隔が狭い)
食事
シマウマが食事を行うのは、薄暗い早朝や夕方。昼間は、木陰で休んだり、水場で水を飲んだりして過ごす。シマウマが食べるのは以下です。
- 草
- 低木
- 小枝
- 葉
- 樹皮
シマウマが好んで食べるのは草。草なら種類を問わずに食べ、立派な歯で草の先端部分を摘み取るようにして食べます。シマウマが食べた草の残りの部分は、ヌーやトムソンガゼル、スイギュウなど食べるのです。そのため、これらの動物の群れがシマウマの群れの後を追うように移動することもあります。
分布
シマウマはアフリカ大陸に生息している動物です。種によって生息している場所が異なります。
好む地形も種類によって異なります。
ヤマシマウマ:山地の草原
サバンナシマウマ:サバンナ(雨季と乾季がある場所)
グレービーシマウマ:低木地帯や半砂漠地帯
ヤマシマウマは、平地でも見かけられますが基本的には山好き。夏場は山地の坂道や、海抜1000 m以上の高原、絶壁などを好んで暮らしています。しかし、冬になると山を下り平地に移動。
サバンナシマウマとグレービーシマウマの住処の違いは乾燥度合。サバンナシマウマは、雨季のある地域を好み、雨を追うように移動をしながら生活しています。サバンナシマウマは、食べ物と水を雨に頼っているため移住が必要なのです。
一方で、グレービーシマウマは必ずしも雨を必要とせず、半分乾燥した地域で生きています。グレービーシマウマは2~5日程度なら、水を飲まなくても大丈夫。さらに、嗅覚を頼りに水脈を探したり、川を掘り返して水をさがしたりもします。
生活スタイル
シマウマはハーレム(群れ)を作る動物ですが、群れの構成や関係も種によって異なります。
ヤマシマウマ:1頭のオスと数頭のメスとその子ども(大きな群れを形成しない)
サバンナシマウマ:1頭のオスと数頭のメスとその子ども(大きな群れ形成)
グレービーシマウマ:あまり強くない関係性を持つ
ヤマシマウマはハーレムを形成。ハーレムは1頭のオスと1~5頭のメス、その子どもから成ります。一方で、ハーレムを持たないオスは、ハーレムを持たないオス同士で群れを作ります。ヤマシマウマの場合、ハーレムが集まりさらに大きな群れを作ることはありません。
サバンナシマウマもハーレムを形成します。1頭のオスと数頭のメス、その子ども達がハーレムの構成員。は―レムを持たないオスは、お互いに集まって群れを構成。サバンナシマウマの場合、ハーレムやハーレムを持たないオスの群れが集まり、大きな群れになることがあります。大きな群れを作ってもハーレム内での、つながりは強いままです。
グレービーシマウマは、ハーレムのような強いつながりのある群れを作りません。グレービーシマウマは縄張りを持つオスと、メスの群れ、縄張りを持たないオスの群れに分かれて生活。メスは定期的に、オスの縄張りを間を歩き回っています。縄張りを持ったオスは、メスが自分の縄張りを訪れると繁殖を行います。一方で、縄張りを持たないオスは、縄張りを持つオスのテリトリーに入ると攻撃されるので避けるように生活するのです。
シマシマの理由
シマウマが縞模様である理由については昔から研究されてきました。縞模様である理由については、以下が挙げられます。(今では否定されているもの有り。)
- 草に紛れやすい
- 1頭ずつの形をわからなくする
- お互いを認識しやすくする
- 体温調節
- ツェツェバエ対策
順に解説します。
草に紛れやすい
シマウマの、縞模様はある程度離れた距離から見ると灰色に見えると言われています。そのため、捕食者に気づかれにくくなるのです。しかし、捕食者の目はそれほど良くないため、これは否定されています。
一頭ずつの形をわからなくする
シマウマは集団で暮らす動物です。体が縞模様だと、集団で集まった時に離れて見ると一頭一頭の輪郭が不鮮明に。その結果、捕食者がターゲットを絞りにくくなり、生存競争に有利になります。
お互いを認識しやすくする
シマウマは集団で生活するので、自分と関係の深い個体とそうでない個体を識別する必要があります。個体の識別に一役買っていると言われるのが縞模様。実際、シマウマ一頭一頭の模様は少しずつ異なります。しかし、シマウマの視力を考えるとかの説も怪しいようです。
体温調節
一般的に、黒色は光を吸収しやすく、白色は光を反射しやすいです。そのため、シマウマの黒い部分は温まりやすく、白い部分は温まりにくいと考えられます。その結果、黒と白の部分に温度差が形成。この温度差を打ち消すために、黒い部分から白い部分に空気が流入。この時に生じる空気の流れで、体温調節をしているという説です。
しかし、これは某番組の実験で否定されています。
ツェツェバエ対策
現在有力な説です。ツェツェバエはアフリカ眠病という恐ろしい病期の原因となる寄生虫を、媒介する昆虫です。動物の血を吸うことで生きています。
ツェツェバエは、見た目が黒や白など単色の物に止まりやすく、縞々模様の物に止まりやすいことが、最近実験によってわかりました。この結果から、ツェツェバエに寄って来られにくくするために、シマウマは体を縞模様にしたと考えられるのです。
一言
シマウマが3種に分かれていることを知っていましたか?動物園に行く機会があれば、どのシマウマがいるか確認すると面白いと思います。最後に全く関係ない情報ですが、シマウマは捕食者から逃げる時には最高65 km/hで走るそうです。
ウマとロバの違い:web動物図鑑
ウマとロバは大きさが違いますが、よく似た形をしています。ここでは、見た目の良く似たウマとロバについて違いを紹介しています。
食事
ウマ:ロバより食べる
ロバ:粗食
ウマの食べるのはは、干し草や牧草からなる良質な飼料です。甘みがあり固い植物も好んで食べます。
ウマは1日に7~11 kgの食べ物が必要。これは、およそスイカ1個半から2個の重量にあたります。また、40~45 Lもの水を飲みます。これは、2 Lのペットボトル20~22本半です。
ロバはウマに比べて粗食です。水の飲めない乾燥した牧草地でも、6~7時間の放牧で儒分に生き抜くことができます。牧草地がなかったり、長時間働いてもらったるする場合でも、ロバは、干し草か乾燥飼料、それにミネラルと水があれば十分。とても、経済的な動物なのです。
性格
ウマ:社会性、群れを作る
ロバ:気まま、群れを作らない
ウマは社会性があり、群れを作ります。また、繊細な動物でもあり、ヒトの行動から感情を推測できるようです。そのため、ウマに対して恐怖心などがあると仲良くなれません。
一方でロバは、よく言えば気ままな動物です。群れを作らず、協力することが苦手。自分勝手なので、ヒトのいうこともウマのようには聞きません。しかし、使い慣れた道を覚えることができるように、記憶力はいいです。
尾
ウマ:フサフサ
ロバ:フサフサでない
これは、写真通りです。ウマの方がロバよりもフサフサの毛をしています。
耳
ウマ:短め
ロバ:長め
ロバとウマを比べると、顔に対する耳の長さは、ロバの方が長いです。
一言
ここまで、ウマとロバ自身の違いについて見てきました。上では触れませんでしたが、ロバ、ウマともにヒトに家畜化されている動物です。ウマは自動車や鉄道が発達するまでは代表的な乗り物として使われていました。一方で、ロバ上で説明したような性格から、荷物の運搬用として利用されてきました。また、ロバは粗食であるため、特に乾燥地域など厳しい環境では、現代でも利用されています。
インドサイの特徴:web動物図鑑
ここでは、インドサイの特徴を紹介しています。
食事
インドサイは以下のようなものを食べます。
- 草
- 低木や木の枝葉
- 果実
- 水草
- タケノコ
自分より背の高い草や若木を食べる時は、体をぶつけ全体重を乗せて踏み潰してから食べます。食事は、他の草食動物と同様に、早朝や夕方に行います。
分布
インドサイは以下の地域に生息しています。
- インド北東部
- ネパール
河や沼などの湿地帯にある、背の高い草が生い茂る場所や森林を好みます。また、定期的に水浴びや泥浴びもします。泳ぎも得意です。
角
「サイの角は2本」というイメージが強いと思いますが、インドサイの角は1本です。2本角があるのは、アフリカに生息するシロサイとクロサイです。
生活単位
基本的に、大人のインドサイは、オス、メスに関わらず、単独で生活しています。オスのインドサイは、縄張りを形成しますが、繁殖期以外は他のオスが縄張り内を通ることを許可します。
一方で、インドサイは、時期よって一時的にグループを形成します。雨期に森林のある池や、3~4月に草原などで集団を作り生活します。
また、若い個体や未成熟な個体はオス、メスに分かれてグループを形成します。これは、大勢で生活することで、敵から身を守るのに有利だからです。
子連れのメスは、約4年間は子どもを連れて行動します。また、既に子をもつメスに、新たに子どもが生まれた場合でも、年長の子どもを一緒に連れて回ることもあります。
聴覚、嗅覚に優れる
インドサイは、聴覚と嗅覚は優れていますが、視覚は発達していません。そのため、インドサイには10種類以上の鳴き声を有し、これらを利用してコミュニケーションを取ります。また、尿や糞などの排泄物を用いて、縄張りを主張します。
おだやかな性格
インドサイは、穏やかな性格です。繁殖期を除けば、オス同でも争うことは、ほとんどありません。しかし、怒らせたり、おどろかせたりすると、突進してくるので注意が必要です。短い距離なら、時速55 km/hで走ることができます。
一言
インドサイの名前は、シロサイやクロサイよりわかりやすくていいです。インドサイの絵を描くときは、角は1本です。注意してください。インドサイの絵を描く機会があるか、わかりませんが...
web動物図鑑:No.045~No.048
web動物図鑑のNo.045~No.048です。実は、No.043のシロサイから、偶蹄目から奇蹄目に移っています。動物に詳しいかたは、気づいているかもしれません。(現在では、偶蹄目、奇蹄目という分け方は、あまり重視されていませんが。)
インドサイ
No.045 インドサイ
そうこうしゃ
全長 3.1-4.0 m
体重 1500-2200 kg
一言
初めて図鑑で見たときから、インドサイ=装甲車というイメージが出来上がってしまいました。普段は大人しい動物ですが、怒らせると時速50~60kmで走り追いかけ来ます。まさに、「装甲車」。(言いたいだけです。)
ウマ
No.046 ウマ
すばらしいそうこうすがた
全長 2.4-3.0 m
体重 300-800 kg
ふるくから ヒトにより かちくかされ のりものなどとして かつやくして きた ヒトに かかせない どうぶつ だった。げんざいでは もっぱら おかねを かける たいしょうと みなされる ことが おおい。
一言
ウマの走る姿は、草食動物の中では一番かっこいいと思います。でも、お金を賭ける対象にはしたくないです...
ロバ
No.047 ロバ
えこでちからもち
全長 2-2.3 m
体重 200-270 kg
ウマより ちいさい どうぶつ だから たいしたことない などと あまく みては いけない。ちからもちで きおくりょくも よく とおる みちを おぼえることも できる。さらに えさも すくなくて すむので けいざいてきな どうぶつ。
一言
ロバの微笑んでる姿が可愛いので、この写真にしました。
シマウマ
No.048 シマウマ
しぜんがうみだしたひとへのちょうせんしゃ
全長 2.0-2.8 m
体重 200-450 kg
からだに はいった しましまもようの やくわりに ついて ながいあいだ ヒトは ぎろんしてきたが けっちゃくは ついていない。とくちょうてきな みためから どうぶつの なかでも ちめいどが とても たかい。
蜂須賀家政:web武将名鑑
蜂須賀家政は、父で豊臣秀吉に仕えた蜂須賀正勝や、息子の蜂須賀至鎮に比べれば、武将として功績が微妙です。しかし、結果的に家政がいたことで、蜂須賀家は滞りなく存続することになります。
~基本情報~
- 生存年:1558年~1639年 (81歳)
- 最高官位:従五位下 阿波守
- 姓:蜂須賀氏
< 総括 >
豊臣家の宿老だった父の正勝、優秀だが早死にした息子の至鎮に比べ、大きな活躍はそれほど残っていない。しかし、蜂須賀家が上手く立ち回れるように陰から支えた部分は評価に値する。家政がいなければ、御家が回らなくなることがあったと思われる。
豊臣秀吉の家臣
蜂須賀家政は、尾張丹羽郡の宮後城で、蜂須賀正勝の嫡男として誕生しました。父正勝が、織田信長に仕えていた豊臣秀吉に従い、家政もこれに従いました。
中国攻めの際には、豊臣秀吉の黄母衣衆として活躍するとともに、父正勝とともに長水城を攻略しました。この功によって、家政には月毛の名馬が送られます。
豊臣秀吉は山崎の戦いにて、明智光秀を滅ぼします。その結果、織田家を超える権力を手中に収めます。この状況を問題視した柴田勝家が挙兵し、賤ヶ岳の戦いが起きました。家政はここで活躍し、播磨佐用郡(兵庫県)にて3000石の領地が与えられました。
蜂須賀家の裁量を任される
蜂須賀家の状況について注目してみましょう。父の正勝は豊臣秀吉の側近として活躍していたため、中国攻めの功で与えられた龍野(兵庫県)5万3000石の采配は、家政が執っていました。一方で賤ヶ岳の戦いに前後して、蜂須賀家の家督も家政が相続し、名実ともに、蜂須賀家の裁量は家政に任されました。
父が拒絶した阿波の太守
賤ヶ岳の戦い以降、豊臣秀吉は天下統一に向けた戦いを繰り広げます。家政も父の正勝ともに、紀州征伐、四国征伐などに従軍し、手柄を立てました。
豊臣秀吉は、四国征伐における父、正勝の活躍により、父の正勝に阿波(徳島県)17万5000石を与えようとします。しかし、父の正勝は豊臣家の宿老として仕えることを望み、これを拒否してしまいました。そこで、豊臣秀吉は、家政に阿波を与えました。
その結果、家政の所領は3000石から17万5000石まで一気に上昇しました。(周りからは、親の七光りと馬鹿にされなかったのでしょうか。)また、翌年には従五位下、阿波守に任じられ、名実ともに阿波の大守となります。また、豊臣秀吉の命により、居城として徳島城を新たに築城しました。
朝鮮出兵で謹慎処分
家政は、文禄の役(第一次朝鮮出兵)、慶長の役(第二次朝鮮出兵)ともに7200人の兵を率いて朝鮮半島に渡り戦いました。文禄の役では、五番隊の主力でした。
一方で、慶長の役では謹慎処分を食らってしまいます。経緯を説明します。
慶長の役で、日本軍は朝鮮半島南部に城を築き、その地を守ることを一つの目標としていました。日本軍は順調に城を築いていきますが、完成間近の蔚山倭城が明・朝鮮軍5万7000に包囲されました。籠城した日本軍は、援軍が到着するまでの間10日間、懸命に城を守りました。
そして、援軍が到着すると明・朝鮮軍は撤退を開始します。しかし、明・朝鮮軍は、日本軍に追撃をかけられ、大打撃を受け敗走しました。家政はこの援軍に属していました。しかし、石田三成らの部下に、「家政らは援軍に赴いたにも関わらず、戦闘を行わなかった。」と豊臣秀吉に報告されます。
また、家政ら13将は蔚山倭城の攻防戦を受けて、戦線の縮小を訴えたことで、豊臣秀吉の怒りを買いました。特に、家政には石田三成の部下による報告と、戦線の縮小案の提言を行ったことにより、帰国を命じられ自身の所領阿波での謹慎処分が下りました。
石田三成襲撃事件に関与?
朝鮮出兵の最中、豊臣秀吉が亡くなると朝鮮半島に派遣された日本軍は帰国します。国内に目を向けると、徳川家康が横暴な振る舞いを始めます。徳川家康は、豊臣秀吉が生前に決めた、取り決めを堂々と破る行動に出ました。そして、大老や奉行など、これに抗議する者が現れます。家政は徳川家康派として行動するようになります。
このような中、大阪城下の石田三成の屋敷が、七将によって襲撃されました。石田三成は、徳川家康の振る舞いに抗議する武将の一人でした。資料によっては、この七将の中に家政が含まれることがあります。この事件の責任を取る形で、石田三成は謹慎処分となりました。
この事件の後、徳川家康は、先の朝鮮出兵での、蔚山倭城の戦いに派遣された援軍の中の、家政らの行動に失態はなかったという判断を下しました。これにより、家政らの名誉は回復されます。
家政は徳川家康にさらに接近し、息子、蜂須賀至鎮は徳川家康の養女と結婚しました。この婚姻は、大名同士の独断による私的縁組を禁じた取り決めに反するものです。
関ヶ原の戦い
その後、会津征伐と続く、関ヶ原の戦いでは、家政は大阪城下に残り、息子の至鎮が蜂須賀家の代表として参陣しました。家政が参陣しなかった理由は、病気であったからとされています。しかし、病気は表向きの理由で、徳川家康派として敢えて大阪城下に残ったという説もあります。(西軍に関する情報をひそかに届けたり、西軍に属した諸将を調略したりするつもりだったのでしょうか。)
大阪城下に残ろうとした家政ですが、毛利輝元が大阪城に入ると、高野山で出家の上、謹慎を命じられました。家政の領地、阿波にも毛利家の軍勢が入り、阿波の蜂須賀家の軍勢は西軍の指揮下に入りました。そして、2000人の兵が阿波から北国口の防衛のために派遣されました。
結局、関ヶ原の戦いは、東軍(徳川家康方)の勝利に終わり、息子の至鎮が東軍として参陣したことから所領は安堵されました。家政はこれを機に、家督を息子の至鎮に譲りました。
嫡孫の後見人
江戸時代に勃発した大阪の陣でも、家政は徳川方につき豊臣方から送られてきた密書を、徳川家康に差し出しました。
しかし、大阪の陣後、蜂須賀家は不幸に見舞われます。家督を譲られた息子の至鎮が若くして病死してしまいます。幸いにも息子の至鎮には既に、息子がいため蜂須賀家は御取り潰しを免れます。ただし、この時点で家政の孫にあたる蜂須賀忠英は幼く、とても統治などできません。減封処分を食らってもおかしくない状況です。
ここで、白羽の矢がたったのが家政です。家政は、孫の忠英が成人するまでの9年間後見人として領内の政務を取り仕切りました。家政が存命であったため、領地を全く没収されることなく、蜂須賀家が存続できたのです。
戦国好き徳川家光のお伽衆
成人した孫の忠英に、無事跡を継がせることに成功した後、家政は戦国時代のお話が大好きな徳川家光の御伽衆(側に仕えて自分の経験談を話して聞かせる)となりました。そして、1639年に81歳で亡くなりました。
蜂須賀至鎮:web武将名鑑
蜂須賀至鎮は、弱冠14歳にして関ヶ原の戦いに蜂須賀家の代表として参陣した武将です。至鎮は名前の通り、豊臣秀吉の家臣、蜂須賀正勝と血が繋がっていて、孫にあたります。ここでは、蜂須賀至鎮について見ていきましょう。
~基本情報~
- 生存年:1586年~1620年 (34歳)
- 最高官位:従四位下 阿波守
- 姓:蜂須賀氏
< 総括 >
有能な指揮官であり、大坂の陣では偵察隊からの情報を基に作戦を立案し提言し成果を挙げた。領地の支配においても、善政をしき名君と言う誉が高いが若くして亡くなった。
九州征伐の年に誕生
蜂須賀至鎮は、蜂須賀家政の長男として1586年に誕生しました。1586年は、豊臣秀吉が徳川家康を臣従させるとともに、九州征伐を行って島津家を服属させた年です。天下統一まで、関東の北条氏と奥州諸氏の服属を残すのみという状況でした。
その後、1590年に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げます。至鎮が4歳の時です。このまま、豊臣政権が安定していれば、至鎮が戦陣に立つことはなかったでしょう。
徳川家康の義婿
1599年豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康が動き始めます。徳川家康は、豊臣秀吉が生前に定めた取り決めを破ります。例えば、大名は無断で婚姻を決めることができませんでしたが、徳川家康は次々と縁組を行いました。1600年、14歳になっていた至鎮も、徳川家康の養女と結婚しました。
父の代理で東軍へ
至鎮が結婚した同年、徳川家康は上杉景勝に謀反の嫌疑をかけて、会津征伐のため江戸に戻り自らも兵を率いて諸大名とともに出陣します。至鎮は病気で伏せていた父家政の代わりに兵を率いて参陣しました。
至重の参陣については、父家政に命じられたからとも、病気を理由に腰を上げようとしない父家政の反対を押し切って行われたとも言われています。
その後、関ヶ原の戦いでも、至鎮は東軍に属し戦いました。戦後には所領が安堵され、出家した父から蜂須賀家の家督を譲られます。阿波(徳島県)17万5000石を支配する大名となりました。
大阪の陣で才覚発揮
至鎮は関ヶ原の戦いに参陣した時は14歳でした。そのため、関ヶ原の戦いでの至鎮の活躍を以て評価するのは困難です。至鎮が武将としての能力を発揮するのは、大阪冬の陣です。
豊臣方は、大阪城から海につながる要衝である木津川口に砦を築いて、守っていました。徳川方として戦っていた至鎮は、偵察を派遣して木津川口砦がの防備が甘いという知らせを受けます。
そして、これを徳川家康に進言し、翌日浅野長晟、池田忠雄らとともに攻撃を許されました。しかし、至鎮は抜け駆けして、単独で砦を攻め取りました。
その後に行われた博労淵の戦いでも、至鎮は活躍しました。戦後、淡路(兵庫県)岩屋を除く、7万石が加増され、25万7000石の所領を有することになります。
大坂夏の陣では、海が荒れたたため遅刻をしてしまいますが、御咎めはありませんでした。
至鎮は病弱であったため、34歳の若さで亡くなりました。内政面にも優れ塩田の開発や、非常時の食料の確保も行いました。
加藤清正の簡単解説:web武将名鑑
加藤清正は、テレビなどの影響もあり武一辺倒の武将と思われがちです。しかし、優れた行政官としての一面も、見過ごすことはできません。ここでは、加藤清正の生涯について見ていきましょう。
~基本情報~
< 総括 >
朝鮮出兵で石田三成らと敵対し、武断派の筆頭格として勇将ではあるが、内政などに疎いと思われがち。しかし、吏僚としての働きも多く、指揮官としても優秀であった。槍働きも得意で、築城の名手としても知られる。
刀鍛冶の息子
加藤清正は、尾張愛知郡中村(愛知県)で、刀鍛冶をしていた加藤清忠の息子として生まれました。清正の母が、豊臣秀吉の母、大政所と従姉妹や遠い親戚関係にあったなどと言われています。その縁があって、近江長浜城主(滋賀県)になったばかりの豊臣秀吉に、小姓として仕え始めました。
槍働きで活躍
加藤清正といえば、槍働きが得意な勇敢な武将と言うイメージがありますが、若い頃はその通りの活躍を見せます。
豊臣秀吉は、織田信長に命じられた中国攻めの一環で、冠山城を攻めました。清正はこの戦いで一番乗りを果たすとともに、竹井将監と言う敵を討ち取りました。
さらに、豊臣秀吉は織田信長の死後、仇の明智光秀を敗死させました。そして、豊臣秀吉の勢いは、主家織田家をも凌駕します。
すると、この状況を芳しく思わなかった織田家の宿老、柴田勝家が豊臣秀吉に対して挙兵し、賤ヶ岳の戦いが起きました。
清正は賤ヶ岳の戦いで、敵将山路正国を討ち取る活躍を見せます。その結果、「賤ヶ岳の七本槍」の一人として豊臣秀吉に称えられ、3000石の所領が与えられました。
卓越した吏僚としての活躍
加藤清正が優秀な吏僚としての働きを示すのが、賤ヶ岳の戦い後です。賤ヶ岳の戦い以降、清正は実際の戦闘の場に立つことは少なくなります。小牧・長久手の戦いや、四国征伐、九州征伐では後方に控え、豊臣秀吉の警護や兵站の管理などを任されていたと考えられます。
さらに、播磨(兵庫県)や和泉(大阪府)にある直轄地の代官を任されたり、尾藤知宣が讃岐(香川県)を取り上げられた後に、新領主が決まるまで統治を行ったりしました。
さらには、九州討伐後の、戦後処理として九州の諸大名への諸事伝達なども任されました。
九州征伐後に、肥後(熊本県)で地元の有力武士が一揆を起こしました。この事件の責任をとって、肥後を所領に与えられた佐々成政が切腹します。
この後、清正には肥後半国19万5000石が与えられました。これまでの、清正の代官としての力量が評価されたとともに、九州征伐後の戦後処理に関わったこと、九州の事情を知っていたかことがその理由です。清正は隈本城に改修を加え、名も熊本城に改めました。
優秀な指揮官として活躍
文禄の役では、二番隊の主将として1万人の兵を率いて朝鮮半島に渡りました。一番隊を率いた小西行長とは異なるルートで、漢城(ソウル)まで進撃します。そして、漢城で一番隊、三番隊と合流した後、臨津江の戦いで朝鮮軍に勝利しました。
その後、一番隊、三番隊とは別れて、朝鮮半島の奥地、北東部へ侵攻しました。そして、海汀倉の戦いで朝鮮軍に勝利します。このように、清正率いる二番隊は快進撃を見せますが、これは二番隊が明への侵攻路から外れ、道中に敵が少なかったためです。
実際に、この頃一番隊、三番隊は明軍に苦戦しています。清正はさらに、満州に進出しますが、得られるものがないため撤退しました。
二番隊はこのように快進撃を見せたため、日本国内では清正から挙がる報告は虚偽ではないかと疑われます。このことから、本国との取次ぎを担当していた、石田三成や小西行長と不仲になりました。
和平に大反対し謹慎
このような中で、士気が低下した明軍と、兵站に問題を抱えた日本軍との間で和議が提案されます。
清正は和平に反対で、賛成派の石田三成、小西行長に対して、反発します。清正を邪魔に感じた小西行長が、豊臣秀吉に清正の不正を訴えました。
そのため、清正は帰国の上、謹慎を命じられまました。一方で、この帰国は石田三成らとの対立が原因ではなく、一時撤退のためとも言われています。真実は明らかとなっていません。
再び指揮官として活躍
慶長の役(第二次朝鮮出兵)では、当初の作戦通り、清正は全羅道を蹂躙した後に、朝鮮半島南部へ撤退しました。そして、日本軍は朝鮮半島南部で築城を開始します。
築城の得意な清正は、蔚山倭城の設計を担当し、建設は浅野幸長と毛利秀元の軍勢が担いました。この後、清正は蔚山倭城と、西生浦倭城の守備を担うことになっていました。
しかし、蔚山倭城の完成間近に、明軍5万7000人が攻めかかってきました。近くにいた浅野幸長らは蔚山倭城に籠ります。この時、清正は西生浦倭城にいましたが、知らせを聞くと500人の手勢を率いて、蔚山倭城に駆けつけともに籠城しました。
完成間近で、兵糧や水の備蓄がない中、清正らは援軍が到着するまで、10日間城を守りぬきました。その後、明、朝鮮軍は日本軍の援軍や清正ら籠城軍と戦い2万人もの被害を出し撤退しました。
徳川家康に接近
豊臣秀吉が朝鮮出兵中に亡くなりました。これを以って、朝鮮に派遣された軍勢は帰国することになります。
一方で、豊臣秀吉の死を、好機と捉えた人物がいます。徳川家康です。徳川家康は、豊臣秀吉が存命している間に決めた取り決めを無視して、専横を行います。その結果、徳川家康の専横を糾弾する武将たちが現れます。
清正は徳川家康の養女を妻に迎え入れ、誼を通じました。無断で大名同士の縁組も禁じられていたため、この縁組も取り決め違反です。
このような中、大阪城下にある、反徳川家康派の石田三成の屋敷が、七将によって襲撃されました。この七将の中の一人は、清正だったと考えられていています。石田三成はこの事件の責任を取らされる形で、居城での謹慎を言い渡されました。
関ヶ原の戦いは不参加
その後、薩摩(鹿児島県)を本拠地とする大名、島津氏の重臣の、伊集院忠真が反乱を起こしました。清正は密かに、伊集院忠真を支援していました。
この反乱の解決は徳川家康に任され、清正の関与が発覚します。そのため、徳川家康は清正に謹慎を命じました。
謹慎処分を受けていたため、会津征伐と、続く関ヶ原の戦いへの清正の同行は許されず国元の肥後にいました。そこで、清正は西軍方で、肥後南半国を支配していた小西行長の宇土城(熊本県)、筑後の立花宗茂の柳川城(福岡県)などを攻める軍事行動に出ます。清正は、関ヶ原の戦い後も攻め続け、これらの城を落城、開城させました。
そして、肥後南半国と筑後で自分が攻め取った領土を、領地に加えてもらえるように、徳川家康に要請しました。その結果、清正には小西行長の領地が新たに与えられ、肥後52万石の領有が認められました。
豊臣家への忠誠心と晩年
加藤清は関ヶ原の戦い後も、豊臣秀頼への忠誠心は厚かったというイメージが強いと思います。清正の忠誠心が示されるエピソードが、二条城(京都府)での、豊臣秀頼と徳川家康の会見です。この時、豊臣秀頼の警護を行ったのが、加藤清正だと言われています。
しかし、これは史実とは異なります。二条城の会見で清正が警護したのは豊臣秀頼ではなく、娘婿となることが決まっていた、徳川頼宜でした。この時点で、清正は徳川家の家臣という立場でした。
清正の豊臣家への義理立てを垣間見ることができるのは、豊田家と徳川家の溝を埋める為に、二条城の会見で豊臣秀頼と徳川家康との対面の場を設けたことです。また、江戸時代以降も、肥後の豊臣家直轄地を維持し、年貢を大阪まで送っていたことからも清正の義理立てが窺えます。
そして、清正は二条城の会見から熊本への帰路の途中に病気になり、熊本で亡くなりました。49年の生涯でした。
黒田長政の簡単解説:web武将名鑑
黒田長政は、父黒田孝高と比較されて劣っていると評価されることが多いです。しかし、黒田長政も父に劣らない軍略家でした。ここでは黒田長政について見てみましょう。
~基本情報~
< 総括 >
父孝高に劣らず謀略や調略を使いこなすことに長けていた。一方で、父孝高とは異なり、勇猛な武将としても知られ、実際の戦闘では自ら槍を持ち、陣の先頭にたって戦った。
織田家人質時代
黒田長政は、黒田孝高の嫡男として、播磨の姫路城(兵庫県)で誕生しました。父孝高は、織田信長の家臣で、中国方面の攻略を担っていた豊臣秀吉に従うことになります。
そのため、長政は幼くして人質となり、豊臣秀吉の居城、長浜城(滋賀県)に送られました。長浜城では、豊臣秀吉の妻おねに、わが子同然に養育されたそうです。
九死に一生を得る
1578年、荒木村重が織田信長に対して反旗を翻し、居城の有岡城(兵庫県)に籠城しました。そこで、荒木村重と懇意にしていた黒田孝高は、荒木村重を説得するために有岡城に乗り込みました。しかし、説得は失敗に終わり、黒田孝高は捕らえられてしまいます。
織田信長は黒田孝高が有岡城から戻らなかったため、裏切ったと考え、幼い長政の処刑を命じました。このままいけば、長政は処刑されて後の世に名を残すことはなかったでしょう。
しかし、ここで黒田孝高の同僚、竹中重治が機転を利かせます。密かに長政を居城の菩提山城に匿いました。そして、有岡城落城後に、救出された黒田孝高、長政父子は再会することができました。
九州に領地を得る
織田信長が豊臣秀吉に命じた中国攻めが、長政の初陣でした。15歳にして、敵を討ち取ったそうです。
このような中、織田信長が本能寺の変で亡くなります。豊臣秀吉は直ちに京都に引き返し、明智光秀と戦って勝利しました。豊臣秀吉はこれを機に、織田家を超える権勢を手中に収めます。
その後、豊臣秀吉は天下を統一するために、諸将を動員して各地の平定戦を行いました。長政もこれに従い、各地を転戦します。特に、長政は九州征伐の財部城攻めで手柄を立てました。
九州征伐後に、父孝高と長政の功績を合わせて、豊前6郡、12万5000石が与えられました。その後、父孝高は中津城を築き居城にしました。
反対勢力の排除
豊前に領地を与えられた孝高、長政父子は検地など領国経営を行います。しかし、ここで豊前の国人衆(地元の有力武士)が結束して抵抗しました。
特に厄介だったのが城井鎮房です。長政は、城井鎮房の本拠地、城井谷の攻略を試みますが、逆に大敗を喫しました。そこで、付城を築いて持久戦に持ち込みます。すると、城井鎮房は、娘を人質にすることを条件に降伏を申し出ました。しかし、降伏を受け入れる許可を、豊臣秀吉が出しませんでした。
そこで、長政は誅殺を決意します。降伏を受け入れるふりをして、城井鎮房を中津城に呼び出します。城井鎮房のみを中津城に招き、城井家家臣団は近くの寺に留め置かせました。そして、宴の最中城井鎮房を謀殺します。その後、城井家家臣団がいる寺にも黒田家家臣を派遣し、全員を切り殺しました。
このようして、有力国人城井家を排除することに成功しました。
黒田家を当主として朝鮮へ渡航
1589年、長政は黒田家の家督を父孝高に譲られ、黒田家当主となりました。そして、豊臣秀吉が行った、朝鮮出兵では、黒田家当主として、軍勢を率いて朝鮮半島に渡りました。
文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、三番隊の主将として5000人を率い、一番隊、二番隊とは異なるルートで漢城(ソウル)まで攻め込みました。その後、三番隊は黄海道を任されて、平壌まで進撃後、撤退します。
長く続く戦いに、朝鮮側の援軍として派遣されていた明軍は指揮が低下します。一方、日本軍は兵糧の問題を抱えることになりました。そこで、和平交渉が行われますが、最終的に決裂します。
和平交渉決裂により起きた、慶長の役(第二次朝鮮出兵)では、長政は忠清道の攻略を任されました。そして、稷山の戦いでは、毛利秀元の援軍もあり明軍に勝利します。その後は、朝鮮半島南部に梁山倭城を築きその防備にあたります。結局、朝鮮出兵は、豊臣秀吉の死により終わりを迎え、日本軍は朝鮮半島から撤退しました。
関ヶ原最大の功労者
長政は日本に帰国すると、豊臣秀吉死後に専横を極める徳川家康に接近します。長政は、蜂須賀正勝の娘糸姫と結婚していましたが、離婚し徳川家康の養女となった栄姫と結婚しました。一方で、徳川家康は豊臣政権の他の大老や奉行から、横暴な振る舞いが非難されます。
このような中で、大阪城下の石田三成の屋敷が七将により襲撃されました。長政は、この七将の中の一人であったと言われています。石田三成は、事件の責任を取る形で、謹慎処分を言い渡されました。
その後に起きた関ヶ原の戦いで、長政は東軍(徳川方)につき、勝利を呼び込む重要な働きをしました。長政は、関ヶ原の戦いの前に西軍の小早川秀秋、吉川広家に対し調略を仕掛け、内応させることに成功します。
関ヶ原の戦いで、小早川秀秋は西軍を裏切り、見方の大谷吉継の部隊に突撃し壊滅させ、そのまま宇喜多秀家、小西行長の軍にまで攻めかかりました。この一手が、西軍の敗北を決定づけます。
一方、吉川広家は、東軍の後方に陣を敷き背後からの攻撃を行うことができましたが、長政の調略により寝返っていたため、戦闘らしい戦闘は行いませんでした。
関ヶ原の戦いでの功績により、黒田長政には筑前名島52万3000石が与えられました。そして、名島城を廃して、居城を福岡城に定めます。
晩年
その後の長政についですが、大坂冬の陣では江戸で留守居役を任されました。しかし、夏の陣には徳川秀忠に従い参陣しました。そして、1623年京都で亡くなりました。55歳でした。
加藤嘉明の簡単解説:web武将名鑑
加藤嘉明は豊臣秀吉の子飼いの武将です。豊臣秀吉の存命時は、豊臣水軍の将として活躍しました。ここでは、加藤嘉明の生涯で注目すべきことを紹介しています。
~基本情報~
- 生存年:1563年~1631年 (68歳)
- 最高官位:従四位下 侍従
- 姓:加藤氏
< 総括 >
豊臣秀吉の子飼いの武将で、水軍を率いる家系に生まれたわではないが、豊臣水軍の将として指揮を託された。関ヶ原の戦いでは、東軍として戦い伊予松山城の城主となり、後に会津若松を治めることになった。
徳川家の下を去る
加藤嘉明は、加藤教明の長男として、幡豆郡永良郷(愛知県)で誕生しました。父教明は、徳川家康に仕えていましたが、三河一向一揆で徳川家康に背き一揆方につき敗北したため、放浪の身となりました。
豊臣秀吉に仕える
各地を放浪した後、父教明は豊臣秀吉に仕えました。一方、嘉明は馬の行商を手伝っていましたが、加藤影泰にその資質を見出されて、豊臣秀吉に仕えました。
明智光秀を敗死させたことで権勢を高めた豊臣秀吉が、織田家宿老の柴田勝家と争った賤ヶ岳の戦いで活躍したことを評されて、賤ヶ岳の七本槍の一人に選ばれます。賤ヶ岳の戦いでの活躍により3000石の知行を与えられました。
豊臣水軍の将
豊臣秀吉は天下統一に向けて、各地への出兵を順に行います。その一環で行われた四国征伐で嘉明は手柄を立て、淡路で1万5000石を与えられ、志知城主(兵庫県)になりました。、これより後、淡路に領地を与えられたことで、豊臣水軍の将の一人として淡路水軍を率いて戦いに参加することが多くなります。
嘉明が水軍を率いて参加した戦いは以下です。
海路から豊臣軍の川内川(鹿児島県)の渡航を支援しました。
海路から下田城を囲み包囲攻略を支援しました。
豊臣水軍の大将、九鬼嘉隆に次ぐ副将として、淡路水軍を率いて戦いました。特に、李舜臣が指揮する朝鮮水軍と何度も戦い撃退に成功し、豊臣秀吉から感状が送られています。そして、文禄の役の功により、伊予正木(愛媛県)6万石が与えらました。
漆川梁海戦で、元均率いる朝鮮水軍と戦い勝利しましたが、藤堂高虎の活躍には及びませんでした。
関ヶ原は東軍
慶長の役の途中で豊臣秀吉が亡くなると、嘉明ら朝鮮半島に派遣された将兵は帰国しました。一方で、徳川家康は豊臣秀吉が戦前に決めた取り決めを破り、専横を始めました。
石田三成襲撃事件
さらに不穏な空気は続き、豊臣秀吉が死去した翌年に、大阪城下の石田三成の屋敷が七将によって襲撃されました。嘉明は七将の中の一人だと言われていますが、資料によっては嘉明の代わりに別の武将が記載されていることもあります。結局、石田三成は無事でしたが、この事件の責任を取る形で、謹慎させられました。
このような中、徳川家康の専横は酷くなり、我慢ならなくなった関ヶ原の戦いで西軍と呼ばれる諸将が、徳川家康に対して挙兵しました。そして、関ヶ原の戦いを迎えます。
加藤嘉明は、徳川方として関ヶ原の戦いに臨みました。前哨戦の岐阜城攻めで活躍するとともに、関ヶ原の戦い本戦では、石田三成が率いる軍勢と戦いました。一方、嘉明の領地伊予正木に、毛利家家臣や浪人ら2500が侵攻してきましたが、佃十成らの活躍により、これを避けることに成功しました。
戦後、嘉明の活躍が認められ、10万石の加増を受け、伊予正木20万石に封じられます。さらに、加増にともなって、居城を正木城から、新たに築城した松山城に移しました。
その後と晩年
徳川家康は関ヶ原の戦いの後に、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。そして、すぐに将軍職を息子の徳川秀忠に譲ります。
嘉明は徳川秀忠に従い、大阪夏の陣に参戦しました。蒲生忠郷の死後、御家騒動が起きた蒲生家が伊予松山に減封されるのと入れ替わりで、会津43万5500石を任されました。そして、その4年後の1631年に江戸で病死しました。68歳でした。
動物の角は何でできてるの?:web動物図鑑
突然ですが、動物の角は何でできているかご存知ですか。実は動物によって、角の構造は異なります。ここでは、角の構造について動物の種類ごとに紹介しています。
ウシ、ヒツジ、ヤギの仲間
ウシ、ヒツジ、ヤギの角は洞角(ほらづの)と呼ばれています。洞角を持つ動物は、一生角が生える変わることはありません。そのため、一度折れると二度と元に戻りません。洞角は以下のような構成になっています。
~構成~
角芯:骨、頭蓋骨の一部
皮膚
角鞘:ケラチン(爪を構成するタンパク質の一種)により角質化された部分
洞角は、頭蓋骨から突出した角芯(かくしん)を皮膚が多い、その周りを角鞘(かくしょう)が覆って角質化した構造をしています。角鞘の形が種によって異なるため、角の形が異なります。また、角鞘と皮膚の間にケラチンが付け足され、角鞘は徐々に大きくなります。つまり、少しずつ洞角は成長しているのです。
シカの仲間
シカの仲間の角は、洞角に対して枝角と呼ばれることがあります。シカの仲間の角は、毎年抜け落ち生え変わります。構成以下のようにになっています。
~構成~
未完成の角
角芯:骨、頭蓋骨の一部
皮膚
完成した角
角芯のみ
前の角が抜け落ち、新しい角が生えてきた時のシカの角は、毛が生えた皮膚に覆われています。この皮膚は、袋角とも呼ばれます。袋角の中には、角芯があります。角芯は、洞角と同様に骨で頭蓋骨の一部です。角芯は、袋角の血管からカルシウムなどの栄養を与えられて、分岐しながら大きくなります。角芯が成長しきり固くなると、袋角は乾燥して角芯から剥がれ落ちます。
キリンの仲間
キリンの仲間の角の構成は、洞角に似ていますが少し異なります。キリンの仲間の角には角鞘がなく、角芯を覆うのは皮膚のみです。
サイの仲間
ここまで様々な動物の角の構造を見てきましたが、他と一線を画す角の構成をしている動物がサイです。サイは他の動物に比べ、雄々しい角を持っていますが、サイの角は毛が固まったものです。
そのため、折れても再び生えてきます。一方で、角は一生伸び続けるため、サイは角を木にこすり付けるなどして研ぐ必要があります。
藤堂高虎の簡単解説:web武将名鑑
藤堂高虎は、その人生において幾度となく主君を変えました。そのため、裏切り者のイメージのある武将です。一方で築城の名人としても知られています。ここでは、藤堂高虎の生涯について、仕えた主君とともに紹介しています。
~基本情報~
- 生存年:1556年~1630年 (74歳)
- 最高官位:従四位下 左近衛権少将
- 姓:藤堂氏
< 総括 >
機を見るのに敏でその時々で伸びる人物を見つけるのに長けた。しかし、仕えた主君の下で活躍したの本人の能力によるものが大きく、強い武将というだけでなく築城、諜報活動、調略、水軍の指揮など多才であった。
近江で誕生し浅井家に仕える
藤堂高虎は、1556年近江犬上郡藤堂村(滋賀県)で、藤堂虎高の次男として生まれました。父の名前を上下ひっくり返した適当な名前の付け方に思えますが、そこは置いておきましょう。藤堂氏は、地元の小さな領主でしたが、父虎高の時代には落ちぶれて農民に近い状態でした。当時、藤堂氏が凋落していたため、若い頃の高虎の動向に関しては、基本的に真偽が定かでありません。
①浅井長政
高虎は姉川の戦いに、浅井長政の足軽として参戦し敵を討ち取り、浅井長政より感状が与えられました。
②阿閉貞征
その後、小谷城の戦いで、浅井長政が織田信長に滅ぼされると、高虎は浅井家の家臣だった阿閉貞征の家臣となりました。しかし、すぐに阿閉貞征の下を去ります。
③磯野員昌
その後は、同じく浅井家家臣の磯野員昌に仕えましたが、ほどなくしてここも去ります。
成長著しい織田家へ
④織田信澄
次に、織田信長の甥にあたる織田信澄に仕えました。しかし、ここもすぐに去ってしまいます。阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄の3人の下では出世できないと思ったのでしょう。
織田家中で頭角を現した豊臣家へ
⑤豊臣秀長
浅井長政を滅ぼした織田信長は、長浜城を豊臣秀吉に与えました。豊臣秀吉が長浜城主となって3年後、高虎は豊臣秀吉の弟、豊臣秀長に300石で仕えます。高虎は、豊臣秀長が亡くなるまで仕え、最終的に紀伊粉河(和歌山県)2万石を与えられました。
高虎が豊臣秀長に仕えていた際に著しく活躍したのは、賤ヶ岳の戦いです。賤ヶ岳の戦いは、織田信長死後権勢を高める豊臣秀吉と、織田家重臣の柴田勝家の間で起きた戦いです。賤ヶ岳の戦いで、高虎は敵将の佐久間盛政を銃撃しました。この銃撃が、敵軍が敗走するきっかけとなったのです。
また、築城の名手高虎が初めて城を築いたのも、豊臣秀長に仕えていた時です。豊臣秀吉が紀州征伐を行った後に、和歌山城、猿岡山城の普請を行いました。
⑥豊臣秀保
豊臣秀長が若くして亡くなると、高虎は養子の豊臣秀保に仕えました。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、豊臣秀保の代理で朝鮮半島に出兵しました。しかし、羽柴秀保も若くして亡くなります。
高野山で出家
豊臣秀保が亡くなると、高虎は誰にも仕えることなく、高野山(和歌山県)で出家してしまいます。この頃には、高虎が仕えたいという主君がいなかったのでしょうか。
豊臣秀吉に請われて還俗
⑦豊臣秀吉
高虎が出家したことを聞きつけた豊臣秀吉は、その才能を惜しみ、高虎に還俗して直臣になることを求めました。これに応じる形で高虎は還俗し、豊臣秀吉の家臣になり、伊予宇和島7万石が与えられました。
慶長の役(第二次朝鮮出兵)では、水軍を率いて朝鮮水軍と戦い、敵将元均を討ち取りました。そして、大改修を行い宇和島城を居城とします。
天下人の本命徳川家に仕える
⑧徳川家康
豊臣秀吉が亡くなると、高虎はすぐに徳川家康と懇意の仲になります。豊臣秀吉の死後、徳川家康は専横を始めて、他の大名と対立しました。そんな中、大阪城下の石田三成の屋敷が、七将によって襲撃される事件が起きました。この七将に、高虎が含まれていたという説があります。この事件の責任を取る形で、石田三成は謹慎させられました。
石田三成襲撃事件の翌年、関ヶ原の戦いが起きます。高虎は徳川方として参戦しました。関ヶ原の戦いの前に、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保に調略を仕掛けて、関ヶ原の戦い本戦での内応に成功しました。そして、関ヶ原の戦いにおける実際の戦闘では、大谷吉継が率いる軍勢と戦いました。戦後、高虎には伊予今治に20万石が与えられ、後に、伊賀、伊勢、伊予などに22万石が与えられました。
大阪の両陣にも参陣し、大阪夏の陣では、八尾の戦いで長宗我部盛親と交戦し一族含め600人もの死傷者を出しました。その後、加増や転封などによって伊勢を中心に32万3000万石が与えられました。そして1630年、74歳で亡くなりました。
池田輝政の簡単解説:web武将名鑑
ここでは、池田輝政について紹介しています。池田輝政は、小城だった姫路城を世界遺産に登録されるような城にした人物です。
織田家重臣の次男
池田輝政は、池田家の次男として誕生しました。1573年、母の兄で輝政にとって伯父にあたる荒尾善久の養子となり、木田城の城主となります。輝政の初陣は、織田信に反旗を翻した荒木村重が籠る、有岡城(兵庫県)攻めであったと言われています。
初陣から2年後、輝政は荒木村重が逃げこんだ、花隈城(兵庫県)の攻めで、織田信長に感状を貰います。花隈城攻めを担当したのは池田家で、総指揮は父恒興がとりました。輝政は花隈城攻めで、荒木軍の武士を5~6名ほど討ち取りこれが賞されました。ちなみに、戦後池田恒興はこの地を織田信長に与えられ、兵庫城を新たに築城しました。
舞い込んできた池田家当主
1582年:本能寺の変
山崎の戦い (18歳)
1583年:池尻城主 (19歳)
1584年:小牧・長久手の戦い
美濃大垣13万石を相続 (20歳)
1585年:岐阜城13万石 (21歳)
1590年:三河吉田城15万2000石 (26歳)
1582年、本能寺の変で織田信長が家臣の明智光秀に殺されます。本能寺の変の直後、明智光秀は山崎の戦いで、中国地方から帰還した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ、逃げる途中に殺されました。池田恒興は、豊臣秀吉方として戦ったため、美濃大垣(岐阜県)13万石が与えられました。そして、輝政は父の領内の池尻城に入りました。
山崎の戦いで、明智光秀を討ち取った豊臣秀吉は、主家の織田家を凌駕する権勢を誇るようになります。これを良く思わなかった織田信長の次男織田信雄が、徳川家康と同盟を結び、豊臣秀吉と戦いしました。小牧長久手の戦いです。
小牧長久手の戦いは池田家にとって不幸な戦いでした。この戦いで、輝政の父恒興と兄元助が戦死してしまいます。この戦いで、輝政は人質として後方にいたため無事でした。その後、輝政は弔い合戦のつもりで、脇田城を攻めましたが失敗しています。
小牧長久手の戦いの後、輝政は池田家の当主となり、美濃大垣13万石を相続して大垣城の城主となりました。その2年後、豊臣秀吉の命により、所領は13万石のままで、岐阜城の城主となります。
この後、輝政は紀州征伐、佐々成政征伐、九州征伐、小田原征伐、など、豊臣秀吉が天下統一のために起こした戦いにも兵を率いて従軍しました。豊臣秀吉は、小田原征伐を行って天下統一を達成すると、輝政に三河吉田城(愛知県)15万2000石を与え増転封しました。
優遇される輝政
豊臣秀吉は天下統一を成し遂げると全国の諸大名に命じて朝鮮出兵を敢行します。しかし、輝政は渡航を免除されました。輝政が与えられた任務は、東国の警備と、朝鮮出兵のための大船の製造や、肥前名護屋城(佐賀県)への兵糧の運搬でした。また、伏見城の普請なども行いました。
また、輝政は豊臣秀吉を仲介役として徳川家康の娘督姫と娶りました。そして、豊臣秀吉に実子が誕生したことで、険悪となった豊臣秀次が切腹させられた事件では、豊臣秀次の一族が悉く処刑される中、妻であった輝政の娘だけは助命されます。
徳川にも優遇される輝政
豊臣秀吉が亡くなると、輝政は徳川家康と誼を通じるようになります。豊臣秀吉の死の翌年、七将が大阪城下の石田三成の屋敷を襲撃しました。輝政はこの七将のひとりであったとも、なかったとも言われています。また、七将が石田三成邸を襲撃した理由も定かではなく、朝鮮出兵での対立が原因、徳川家康が仕組んだなど諸説あります。
関ヶ原の戦いには徳川方として参戦しました。東軍の西上途中の岐阜城攻めでは、福島正則と先鋒を務めます。輝政と福島正則は、別々の道を通って木曽川に到着後、同時に川を渡り岐阜城に攻めかかる予定でした。しかし、木曽川に早く着陣した輝政が、約束を破り岐阜城を落としてしまいました。
そこで、関ヶ原の戦い本戦では、福島正則に先陣を譲り輝政は、南宮山に布陣した西軍を抑える役割を担いました。そのため、ほとんど戦闘らしい戦闘は行われませんでした。
関ヶ原の戦いの後、輝政は播磨一国52万石を、徳川家康に与えられます。そして、姫路城を築き居城としました。
1611年に行われた、二条城での徳川家康と豊臣秀頼との会見に、輝政は同席しました。その2年後、輝政は姫路で息をひきとりました。この後、池田家は幕末まで続きます。
浅野幸長の簡単解説:web武将名鑑
浅野幸長の生涯を、時系列に沿って3つの区切りに分けて紹介しています。浅野幸長は、奉行を務めた父の浅野長政とは異なり、軍事面で力を発揮した勇将でした。また、豊臣家に対する忠誠心も人一倍強かったようです。
天下統一戦が初陣
浅野幸長は、1576年浅野長政の長男として、近江坂本(滋賀県)で誕生しました。父長政は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の妻おねの義兄弟であるとともに、重臣とし仕えていました。
幸長の母のややと、豊臣秀吉の妻おねは、(義)姉妹でした。ややとおねは、本当の姉妹だったか、定かではありませんが、浅野長政の叔父の養女であったため、少なくとも義姉妹ではありました。そのため、豊臣秀吉にとって、幸長は義理の甥にあたります。
幸長の初陣は、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げるための最後の戦い、小田原征伐でした。幸長は、父の長政にとともに岩槻城の攻略を担当しました。本多忠政とともに、大手口を破る功績を立てて、豊臣秀吉に賞賛され、刀と脇差を送られます。
朝鮮出兵
文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、渡航前に肥後葦北郡(熊本県)で梅北一揆が起きました。幸長は鎮圧部隊の総指揮官として、現地に向かいますが到着前に鎮圧されていました。
一揆鎮圧後、幸長は朝鮮半島に3000の兵を率いて渡海し、日本側が築城した西生浦倭城に在番しました。伊達政宗も幸長の後見人として、自ら豊臣秀吉に渡海を申し出許可されます。その後、幸長は加藤清正とともに、各地の平定を試みました。
幸長が朝鮮半島に在陣している間に、豊臣秀吉から、長政・幸長親子に甲斐府中(山梨県)が与えられました。(浅野長政にとっては、若狭小浜(福井県)からの移封)石高は、幸長が16万石、父長政が5万5000石、豊臣家直轄地が1万石の22万5000石でした。これにより、幸長は府中城の城主となります。
一方で、朝鮮半島に渡った幸長は、日本と明の和議成立により帰国しました。しかし、同年に豊臣秀次切腹事件が起きます。これは、豊臣秀吉に実子が誕生したことで、豊臣秀吉と豊臣秀次の仲が悪くなった結果生じた事件です。この事件で幸長は、相婿(妻が姉妹同士)であった豊臣秀次を弁護します。そのため、豊臣秀吉の怒りを買い、能登津向(石川県)に配流されました。しかし、前田利家と徳川家康の取り成しにより、すぐに許されました。
その後に起きた、慶長の役(第二次朝鮮出兵)でも、幸長は朝鮮半島に渡ります。日本側は朝鮮半島内陸部まで一度進撃し、その後南部に戻って守備を固めました。
幸長は南部の守備のため、築城途中であった蔚山城の城外で野営をしていたところ、突然明軍に襲撃され戦闘になります。明軍の方が数が多く、幸長自身も負傷し馬印が奪われるほど苦戦しますが、家臣の亀田高綱が敵将を討ち取ったことで、隙をついて蔚山城に撤退することに成功しました。
蔚山城襲撃の知らせを聞いた、加藤清正は直ちに蔚山城に戻り籠城して戦いの指揮をとりました。朝鮮出兵で有名な激戦の一つ蔚山城の攻防戦です。幸長は蔚山城の本丸の南側の守備を担当し、自ら鉄砲を撃ちこの激戦を切り抜けたと言われています。
関ヶ原は東軍方
幸長は1598年に日本に帰国しますが、帰国前に豊臣秀吉が病気で亡くなりました。すると、徳川家康が、豊臣秀吉が定めた取り決めを次々と破り、さらにそれに抗議するものも現れます。こうした状況下で、七将が大阪城下の石田三成の屋敷を襲撃しました。幸長もこの襲撃を企てた七将の一人です。襲撃事件が起きた理由は明らかになっていません。七将と石田三成が朝鮮出兵の際に揉めたことが原因とも、徳川家康がけしかけたとも言われています。
その後起きた関ヶ原の戦いで、幸長は東軍として参戦しました。前哨戦とも言われる岐阜城攻めで、は砦への攻撃を担当しました。また、関ヶ原の戦いの本戦では、池田輝政らとともに南宮山の西軍らに対する押さえを任されます。戦後は、京都の警備、毛利輝元の大阪城からの撤収と、徳川家康の入城の手続などを行いました。これらの、功績により、紀伊和歌山城主として37万6560石が幸長に与えられました。
幸長は、関ヶ原の戦い後も、豊臣家に対する忠誠心は持ち続け、二条城の会見で警備を担当し、豊臣秀頼と徳川家康の対面を実現させました。しかし、その2年後、幸長は和歌城にて病死しました。豊臣家への忠誠を失わず、若くして亡くなったため、徳川家によって毒殺されたという説もありますが、証拠はありません。
細川忠興の簡単解説:web武将名鑑
細川忠興は、豊前小倉藩(福岡県)の初代藩主にして、肥後熊本初代藩主の父親です。ここでは、細川忠興の人生を6つに分けて紹介しています。
足利家家臣出身
1563年細川藤孝の長男として、京都で誕生しました。父藤孝は、13代将軍、足利義輝の家臣でした。しかし、1565年に足利義輝が殺されてしまいます。そこで、細川藤孝らは、足利義輝の弟義昭を将軍職に就けるため、織田信長を頼ることにしました。その後、足利義昭は織田信長の助けのもと上洛し、無事征夷大将軍に任命されました。
織田家家臣時代
槍働きで活躍
1573年:足利義昭と織田信長の対立により信長に恭順 (10歳)
1577年:紀州征伐で初陣
信貴山城の戦い(14歳)
1578年:元服、玉と結婚 (15歳)
1579年:丹後守護一色義道を滅ぼした (16歳)
しかし、暫くすると将軍職に就いた足利義昭と、織田信長の仲が険悪になります。忠興は父藤孝と共に、足利義昭を離れ織田信長に恭順し家臣となりました。その後、織田信忠が指揮した紀州征伐で初陣を果たします。初陣ながら、一番槍の功を挙げたと言われています。
また、同年の信貴山城の戦いにも従軍します。忠興は、明智光秀、父藤孝とともに河内片山城を攻めました。味方の陣が崩れそうになるなか、敵陣を突破し何人も敵を槍で討ち取りました。この功績が称えられ、後日織田信長から感状が与えられました。
そして他忠興は初陣の翌年に、元服し織田信忠から「忠」の字が与えられ、ここから「細川忠興」と名乗ります。そして、織田信長の命の下、明智光秀の三女、玉と結婚しました。
翌年、丹後平定のために、明智光秀、父藤孝とともに丹後守護の一色義道を滅ぼしました。この功績により、細川藤孝に織田信長から丹後南半国の支配権が与えられました。
本能寺の変では不動
順調に各地を平定していた織田信長ですが、1582年に本能寺の変で明智光秀に攻められ自刃しました。明智光秀は本能寺の変後、細川父子に味方になるように、説得しますがこれを拒否し、父子は剃髪し居城に引きこもりました。さらに、忠興は明智光秀の娘である、妻の玉を味士野に幽閉しました。婿にあたる細川忠興が味方にならなかったことは、明智光秀にとって大きな痛手だったと言われています。
その後、明智光秀は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に山崎の戦いで敗北し、逃走途中に殺されました。また、父藤孝がこれを機に隠居したため、忠興は丹後南半国の領主となり、宮津城を居城としました。
豊臣家に仕えて
山崎の戦いの後、豊臣秀吉の権勢が増していきます。忠興も他の多くの武将と同様に、豊臣秀吉の家臣となりました。そして、小牧長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐に従軍し戦功を挙げます。
小田原征伐により天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、朝鮮出兵を行いました。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、忠興も九番隊に属して、朝鮮に渡ります。第一次晋州城攻防戦では、晋州城を落とすことができませんでした。しかし、第二次晋州城攻防戦に参戦し晋州城を陥落させることに貢献しました。
国内での動向に目を向けると、豊臣秀吉に待望の実子が誕生しました。その結果、実子が誕生するまで、後継者と目されていた豊臣秀次が邪魔になります。最終的に、豊臣秀次は切腹させられ、関係者も処罰されました。忠興も豊臣秀次に、借金をしていたため、罰せられそうになります。この時、家臣の松井康之が奔走し、徳川家康の取り成しもあったため事なきを得ます。
豊臣秀吉の死後は徳川家康に接近
豊臣秀吉が死去すると、忠興は専横を始めた徳川家康に接近します。そして、豊臣秀吉が亡くなった翌年、石田三成襲撃事件が起きました。忠興ら七人将が、大阪城下の石田三成の屋敷を襲撃したのです。そして、この事件の責任を取る形で、石田三成は謹慎させられます。
この後、襲撃事件を起こしたことに対する恩賞かどうかはわかりませんが、忠興は徳川家康の推薦により、豊後杵築(大分県)6万石が加増されます。その結果、忠興は丹後と合わせて、18万石を領有する大名となりました。
関ヶ原の戦いでは、人質として妻、玉を大阪に取られていましたが、徳川家康が率いる東軍に属します。その結果、大阪城下の細川屋敷は西軍に襲撃され、玉は自害しました。関ヶ原の戦いで、忠興率いる軍勢は、黒田長政らとともに石田三成率いる軍勢と戦いました。また、忠興は東軍に属することを早くに宣言したため、他の大名が東軍になびくのに貢献したそうです。
九州の大大名
関ヶ原の戦いの戦功により、豊前中津(大分県)33万9000石に加増転封されました。ただし、杵築6万石はそのまま領有が認められたので、これらを合わせて石高は39万9000石でした。また、領国支配のための居城を中津城から、改修を加え小倉城(福岡県)に移しました。その後、大阪の陣にも参加し、病気を理由に1620年、細川忠利に家督を譲りました。
細川忠利が、肥後熊本54万石に加増転封されると、忠興は八代城(熊本県)に入りました。そして、1645年に82歳で死去しました。
福島正則の簡単解説:web武将名鑑
ここでは、福島正則の人生について紹介しています。福島正則と聞くと、猛将と言うイメージが強いですが、足跡はどのようなものでしょうか。ここでは、福島正則の生涯を5つに分けて紹介しています。
豊臣秀吉の親戚
豊臣秀吉の家臣に
1561年:尾張海東郡で福島正信の長男として誕生
1578年:三木城攻めで初陣 200石 (17歳)
福島正則は尾張海東郡(愛知県)で、福島正信長男として誕生しました。母親が豊臣秀吉の母、大政所(なか)と姉妹であったと言われています。つまり、正則は豊臣秀吉の親戚です。そのためか、正則は幼少の頃から豊臣秀吉に小姓として仕えました。
正則の初陣は、播磨三木城攻め(兵庫県)でした。三木城攻めは、豊臣秀吉が織田信長に命じられて行った城攻めです。三木城攻めでの功績により、200石を与えられました。
各地を転戦し大名へ
武功を挙げて一廉の武将に
1582年、織田信長が本能寺の変で、明智光秀に裏切られ死去しました。そして、豊臣秀吉は弔い合戦を仕掛け、山崎の戦いで明智光秀に勝利し、明智光秀は逃げる途中で命を落としました。正則は、勝竜寺城を攻撃した際などの功により、500石の所領を与えられました。
山崎の戦いで明智光秀を滅ぼした豊臣秀吉は、主家の織田家をも凌駕する権勢を手中に手に入れました。すると、織田家の重臣である柴田勝家が、豊臣秀吉に手向かいます。これにより、豊臣秀吉と柴田勝家の間で、賤ヶ岳の戦いが起きました。正則はこの戦いで、戦功を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」に選ばれますが、これは豊臣秀吉が自身の子飼いの武将の手柄を喧伝するために言い出したと言われています。この戦いにより、正則は5000石を与えられました。ちなみに、七本槍の中で、正則が最も多くの所領を与えられました。
この後も、四国征伐や根来寺、小牧長久手の戦い等にも参戦し、九州征伐の後に、伊予今治(愛媛県)、11万3000石が与えられ、国府城を居城としました。正則が領内で始めに行ったのは、検地、刀狩だと言われています。また、能島水軍の残党の海賊狩りも行いました。
終わらない戦い
豊臣家に欠かせない武将へ
さらに、豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして、小田原征伐を行いました。小田原征伐で、正則は織田信雄に従って、韮山城攻めの一翼を担いました。しかし、韮山城は4ヶ月以上も籠城戦に耐え、最終的に徳川家康の仲介によって開城しました。
豊臣秀吉は天下統一後、朝鮮出兵を行いました。正則は、文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、五番隊の主将として、朝鮮半島に渡り、忠清道の平定を主に担当します。兵站を担うなど、実際の戦闘以外でもその能力を発揮しました。
文禄の役の後、1595年に豊臣秀次が切腹させられる事件が起きました。豊臣秀次の所領だった尾張清州城は正則に与えられ、所領も24万石に加増されました。
東軍として戦った関ヶ原
大大名に
1598年に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康が接近してきます。翌年、徳川家康は、正則の養子、福島正之に、自身の養女、満天姫(まてひめ)を嫁がせます。この婚姻は豊臣秀吉が、禁じた私的縁組に反する行為でした。
また同年、正則ら七将が大阪城の石田三成の屋敷を襲撃しました。この襲撃事件を起こした動機は、朝鮮出兵での七将と石田三成の対立や、徳川家康がけしかけたなどの説があり、詳しくはわかっていません。
その後、徳川家康の会津征伐に従い出兵し、そのまま東軍として関ヶ原の戦いに参戦します。関ヶ原の戦いの前の岐阜城攻めでは、池田輝政と競って城を落としました。そして、関ヶ原の戦いでは先陣を任され、宇喜多秀家の軍と戦います。しかし、宇喜多軍の前線の将の采配により苦戦を強いられました。
関ヶ原の戦いの後に、徳川家康に功績が認められ、安芸(広島県)・備後(広島県と岡山県の一部)を与えられました。正則は、居城を広島城に定めました。徳川家康に与えられた時の所領は、49万8000石でしたが、検地や新田開発を行い、51万5000石まで増加させることに成功しました。戦いだけでなく、行政手腕にも長けた武将だったことがわかります。
豊臣家への奉仕と晩年
憐れな晩年
関ヶ原の戦い後も、豊臣家の忠誠は忘れず、1611年には、加藤清正とともに奔走して、徳川家康と豊臣秀頼の二条城での会見に漕ぎ着けました。しかし、大阪の陣では豊臣方に加わることはなく、徳川家康に江戸城の留守居役を言いつけられました。
正則は晩年は憐れなものでした。1619年に幕府に無断で広島城を改修したとして、信濃田野井郡、越後魚沼郡に転封のうえ4万5000石に減封されます。そして、その5年後に正則は死去しました。